ヨハネによる福音書四章16〜26節 牧師 橋爪忠夫
今年一月から私達は教会として最も大切な礼拝を共に見直し、その大切さを自覚し て、必要があれば、より御心にふさわしいような礼拝へと形づくることを求め、歩ん できた。表題に掲げた聖旬は、礼拝を考える時、古くから必ずあげられる箇所であ り、そういう意味では私達の教会は常識的な聖句に基づいて、聖書的に礼拝を考えて きたといえる。この四章はなかなか豊かな、多くの示唆を含んだ物語であるが、特に 「霊と真理をもって礼拝する」ということについて共に示されたい。
主イエスがユダヤを一時離れガリラヤヘ向かわれる旅の途中、シカルというサマリ ヤの町の井戸辺でこの物語が始まる。イエスがお一人で休んでおられる所に、一人の サマリヤの女が水をくみに現れる。主イエスはご自分の方から、その女に目をとめ、 「水を飲ませてください」と言われた。日差しの強い正午ごろ、人目を避けて水くみ に来る女は、ユダヤの男の人に語りかけられたことで驚くのである。ユダヤとサマリ ヤは隣り同志であり、旧約時代には十二部族の仲間であった。その後の歴史の変遷に より、北イスラエル王国は様々な国に征服され、純粋なイスラエルの民ではなくなっ てしまった。が、一方ではイスラエルであるという自負を持ち、ユダヤとは近親憎悪 ともいうべき隣国同志の大変醜い間柄になっていたのである。サマリアの女は、「ユ ダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むので すか」と言う。それに対して10節以下の対話は、普通の話のやりとりではなく、話 題に方向づけがなされた対話が進んでいるように思える。イエスの「もしあなたが、 神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか 知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与え たことであろう。」という答えは彼女に大きな戸惑いを覚えさせたにちがいない、何 故なら単に喉の渇きを潤す水の問題から、人の問題へと話題が移ろうとしているから である。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と、そこにおられ る主イエス・キリストが話題の中心に変わっていくのである。「この水を飲む者はだ れでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与 える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」いわば、渇くこと のない水がある。このわたしが与える水がそういう水であるとイエスは言われる。サ マリアの女は単純に水のこととして理解し「主よ、渇くことがないように、また、こ こにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と頼むのである。渇くこと のない水が与えられれば、自分の不足は満たされると考えたわけである。
それに対し主イエスは突然「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言 われたのである。喉の渇き、体の渇きには水が必要である。しかしイエスのこの求め は単に水では満たされない、潤されない渇きとは何かを、この女に気付かせたのでは ないか。「夫」という言葉は、寄りそうべき人、仕えるべき人、古いイスラエルの伝 統からいうと、主人(バアル)、わが主の意味を持つ。サマリヤの女の渇きとは、エ デンの園でアダムの助け手としてエバが造られたように、自分にふさわしい、助け手 をもたなかった渇きであり、更に本当に仕えるべき主を持たないという深い渇きであ ろう。五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。という節操のない女の 話という印象を与えるこの箇所には、伝統的な理解として、一つの神に満足できず、 次々と自分が神と見えるものを変えていく、人間の持つ宗教的な渇きを意味するもの がある。実際旧約聖書におけるイスラエルの偶像礼拝は甚だしいものがある。あれほ ど神たるものが明確であり、あれほど預言者の鋭い警告を受けながら神々に媚を売 り、偶像礼拝に落ちていったという深い渇きである。自分の真の生ける命の主を求め ながら、それを見い出すことが出来ない。それはちょうど自分にふさわしい助け手を 見つけられず、安住する所を持たないこの女の姿であり、深い宗教的な渇きを持ちな がら、自分ではまことの仰ぐべきものを見い出せずさ迷う人間の姿である。「わたし には夫はいません」とありのままを述べた女を主イエスはほめ、礼拝へと話を向けら れる。
サマリア人はモーセ五章だけを聖典として読んでおり、モーセのような預言者が立 てられるという、一種の救済者を待つ信仰を持っていた。女は「主よ、あなたは預言 者だとお見受けします。」と述べ、礼拝すべき場所へと話が進んでいく。サマリア人 はシカルの近くのゲリジウム山に聖所を持ち礼拝していた。しかし主イエスはどこで 礼拝するかということには余り重きをおいておられない。「…あなたがたが、この山 でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを 礼qしているが、わたしは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来る からだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が 来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるか らだ。…」(21〜24節) 人間には深い渇きがあった。しかし、そのような人間を父として愛そうと求めてお られるのが天の父なる神であると語られる。そしてその神を礼拝する者は霊と真理を もって礼拝しなければならない、と。「霊と真理をもって礼拝する」とはどういうこ とか、「神は霊である」と一体どうつながるのか。このことはこの聖書の最大の問題 ではないか、と思われる。霊と真理をもって礼拝する、という言葉は一見、大変抽象 的な言葉と感じられる。ヨハネ福音書に強調され用いられている霊(プニューマ)と いう言葉は、本来風や、人間の吐く息と共通する語である。ヨハネ福音書16章の主 イエスの訣別の説教には「…わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし て、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊であ る。」と述べられている。主イエス・キリストにかわって、主イエス・キリストのこ とを示してくれるのが霊であるから、霊とは甦えられたキリストということであり、 真理とはキリスト以外の何ものでもない。主イエスは「その人」、「わたしが」とい う言葉によってサマリアの女にご自分を示され、メシアを待望しているという女の言 葉の後、「それは、あなたと話をしているわたしである。」と明言される。私達が持 つ大きな渇きは、まことにあがめられるべき天の父のもとで始めて潤される。そして 私達は自分ではそういう方を見い出すことが出来ないのである。ただ主イエス・キリ ストを通して、つまり霊と真理であるキリストを通してのみ、私達は永遠の渇きをい やされる方を仰ぐことが出来るのである。キリスト以外には私達を本当の礼拝に導く 方はおられないのである。従って私達の礼拝の大きな課題は、キリストがそこに本当 におられるような礼拝をすることである。キリストが語った言葉が新しくここで語ら れなければならない。そしてキリストはただ言葉を語りかけただけではない。言葉が 肉体となって、私達のもとに来られたのである。そのキリストが目に見える体になら れたその肉、その血である聖餐を通して礼拝は本当の礼拝になっていくそこにキリス トがおられる。そして私達を通して、またキリストが表される、そういう礼拝を共に 力強く守っていきたい。