イザヤ40章27〜31節 ルカ24章13〜27節 牧師 橋爪 忠夫
我が教会の西暦二千年に与えられた年間の標語は、右のイザヤ書40章31節の聖 句です。本教会創立六十周年にもこれを掲げ、今年の七十周年をも飾る聖旬になりま した。こねは希望についての聖書の代表的な言葉であり、また、旧約聖書を代表する 一つのメッセージともとれると思います。この一句はしかし、今の私達の普段とは全 く違う極限的な状況の中で語られていることを、よく理解する必要があります。それ はイザヤ書40〜55章の、今日では第二イザヤと呼ぶ預言者の活動した時代のこと です。それを解するために、私たちの教会のある方が語られた、戦後の数年をシベリ ヤで捕虜として抑留生活をした経験談を私は思い出します。私たちは今日では種々な 記録で、捕虜の生活の実態についてある程度は知ることができます。しかしその経験 談は、実際の様子をありありと思い浮かべさせるものがありました。不自由な辛い毎 日が続く中に、よく噂が流れた、しかもそれはよりよい明日を告げる希望的な内容の ものだったそうです。一、ニケ月するともう少し労働が軽くなるとか、食事が良くな るとか。あるいは次の春になると抑留から解放されるかもしれないとか。そういう噂 に一面で励まされ、期待を懐いて頑張る。しかしそれはやがて根も葉もない単なる噂 だとはっきりし、次々に裏切られていった。このように繰り返し望みを裏切られる三 年余が続き、いざ本当に日本に戻れるときには、すっかり疑い深くなり、最後まで帰 国が信じられなかったと、述べておられました。
この第二イザヤの時代状況もそれと似たものでした。彼は、バビロニヤに滅ぼさ れ、その上にバビロンに数十年間捕囚となった民、イスラエルに預言者として遣わさ れました。彼は民の叫びを代弁しながら、こう声を発しています。
「ヤコブよ、なぜ言うのかイスラエルよ、なぜ断言するのかわたしの道(運命)は 主に隠されている、とわたしの裁き(あるいは訴え)は神に忘れられた、と」(27 節)。神に忘れられ、見放されているというこの民の絶望の深さが伝わって来る言葉 です。暗い闇が彼らをおおっていました。そしてもう一つ、このわずか5節の間に 「倦む」「疲れる」という言葉が連発されています。この民は度重なる挫折に、身心 ともに疲れ切っていました。これが旧約のイスラエル二千年の歴史の中でも、特に暗 い紀元前八世紀のバビロン捕囚の数十年問でした。そこでイザヤは「主に望みをおく 人は新たなる力を得る」と語りました。しかしはたして民はその言葉を素直に受け入 れ、まともに耳を傾けたでしょうか、預言者の言葉は空しく響いたことでしょう。
私はこういうことを想像します。実際のイスラエルの運命はペルシア帝国キュロス の出現により解放へと開けて行きます。しかしもしぞういうことを全く知らなかった なら、この民が極く自然にどういうところに行き着くかということです。それはこう いう望みのない境遇を運命だと諦めることではないでしょうか。もっと言えば希望を 拒絶することです。かくあれかしと願うことによって、益々惨めになるからです。そ れは根も葉もない望みのたぐいよりもましです。ときには諦めもある説得力を持ちま す。古いギリシアの神話にも希望について語る「パンドラの箱」という話がありま す。ゼウスを初め、天上の神々は、天上の火を盗まれた報復に、人類に悪意に満ちた ある贈物をしました。それが魅力的な女性パンドラとその箱でした。その箱の中に は、病気、禍い、争いなど人間を苦しめるあらゆるものが詰め込まれていました。パ ンドラがその箱を開けると、またたくまに種々な不幸が人を襲った。その箱の中味の 一つが「希望」だと語っています。ギリシア神話でも望みとは人を不幸にする神々の 悪意ある贈物なのです。従って望みを拒むことが、一つの打開策であり、一層の不幸 を招かぬ道となります。捕囚の民イスラエルがこれと同じ心境になったとしても何の 不思議はありません。このような捕らわれの民に、預言者はどのように語り、真の希 望を抱かせるのでしょうか。大切なのは希望そのものよりも、その根拠です。どこか ら語られる希望であるかです。
イザヤは望みを失った民に、ただちに望みについては語りません。むしろ希望がど こから来るのかを繰り返し述べます。主なる聖なる神ご自身を語ります。いや、預言 者の口を通して、綿ご自身が語っていると言った方がふさわしいでしょう。
「お前たちはわたしを誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われ る。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出され た方それぞれの名を呼ばれる方」(25〜26節)。「あなたは知らないのか、聞い たことはないのか。主は、とこしえにいます神地の果てに及ぶすべてのものの造り 主。倦むことなく、疲れることなくその英知は究めがたい」(28節)。
彼らノ語りかける神はこのような方です。都エルサレムからすれば、地の果なるバ ビロンにも臨在し、イスラエルの確かな未来を、とこしえにいます方として知ってお られる、創り主にして、遍在される神、その方の御言葉を彼は語っています。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を 得」ると。人から出るこの世の望みは、やがて消えるでしょう。しかし主から出る望 み、いや主なる神ご自身に望みをおく人は新たな力を得ます。この神に聞くか、運命 を諦めかのどちらかです。
ある旧約学者によるとこの「望み」のヘブライ語は「つな」とか「巻きつく、から みつく」という語源から来ているそうです。漢字の望むとは亡くなりそうな月をはる か遠くから眺める姿から来ているそうで、対照的です。神の脚力によって、神ご白身 に巻きつき、自分たちをからみつけることが新しい力を与えられ、弱ることも疲れる こともないことの秘訣です。また聖書の望みという言葉のもつ神に対する激しさ、神 の人間に対する激しさがいます。第二イザヤはこのように単なる望みではなく、主に ある望みを語りました。そしてそれが力となったのです。
私はこれと同じような、ある意味でもっとこのことが鮮明になっている新約聖書の 一場面を思い出します。それは「エマオ途上に現れた復活の主イエス」(ルカ24章 13節以下)です。二人の弟子は暗い顔をして、「わたしたちは、あの方〔イエス〕 こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と語り、いかに主イエ スの十字架により、その望みが打ち砕かれ、復活の噂さえ、その失望を一層深くして いるかを語っています。そこ、でそれまでそれとわからぬ復活の主イエスは彼らをい さめ、「モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体(これは旧約)にわたり、御 自分について書かれていることを説明され」ました。(25〜26節)。すると二人 に段々、そそれが神なる主イエスであることがわかり、心は燃えたと記されていま す。これが主に望みを起され、主に望みをおく人が新たな力を得た姿に他なりませ ん。この望みに満ちた場面をこの新しい年の冒頭に思い浮かべようではありません か。そして主に望みをおいて歩もうではありませんか。