説教  「行きとどいた挨拶」   

 ローマの信徒への手紙16章1〜16節    牧師 橋爪 忠夫

共に読み進んで来ましたローマ書も最後の16章です。いかにも手紙の終りらし く、使徒パウロは彼の地の教会の知人たちに、次々に挨拶の言葉を送っています。 「よろしくしと繰り返えしています。いささか冗長で、次々と登場する人の名前に閉 口する方もあるかもしれません。しかしよく読んでみると決して内容のない単なる挨 拶の繰り返しではなく、パウロは一人々々の人々を名前と共に、その特色、人格を鮮 やかに脳裡に思い浮かべて、語っていることがわかります。ある人が言うように、こ の挨拶のリストをたどっていくと、そこに血の通った交流が脈打っているという印象 を受けます。挙げられた人の名前は二十六名に及び、その数の多さとともに、一人々々に付せられた言葉から、彼の記憶の正確さにも驚かされます。ここから何が読み取 れるのでしょうか。またこの新共同訳にあるような「個人的な挨拶一とだけではたし て言 い尽くせるものなのでしょうか。私はこの挨拶を「個人的な」と表すよりも、公の意 味をもち、むしろ懇切さを生かして「行きとどいた挨拶」と表したいと思います。そ れは人間的に情味がこもっているというよりも、彼の信仰による思慮が強く反映して いるという意味で行きとどいたとういことです。

まずここに上がっている名前をたど りながら三つの点に着目しましょう。一つ目は、冒頭にあるフェベの紹介のように女 性が男性と肩を並べて重んじられていることです。フェベはこの手紙の発信地コリン トに近いケシクレアイの教会の奉仕者でした。この奉仕者とは後には執事と訳される 語が使われています。また彼女は「多くの人々の援助者、特にわたしの援助者」 (2節)と呼ばれています。援助者とは奴隷解放後、その自由を後見する役目の人に 使われる文字です。とすれば彼女の役割は決して軽いものではありません。 しかも彼女は、このローマの信徒への手紙をローマの教会に運ぶ人であります。当時 の様子を思い浮かべるならば、この手紙をこのような女性に託すことは例外的なこと であり、いかに彼が彼女を重んじているかがわかります。ここに端的に表れている女 性しょを重んじることは、次の3節以下に妻プリスカを夫より先に呼んでいること、 また男性と肩を並べてマリア以下、次々と女性の名が登場していることにも現れてい ます。

二つ目は、ローマの市民で一家を構え、教会に家を提供する家主アリストブロ やナルキソとともに、典型的な奴隷の名が登場していることが、今日の研究でわかっ ています。アンプリアト、ペルシス、フレゴンなどがそれに当たります。パウロの挨 拶では、いや当時の教会では、この世の身分の差はすでに通用しなくなっていまし た。三つ目は、これらの名前から、このローマ書の主題にもつながる重要な事実がう かがわれます。パウロの願いであり、使命は、異邦人たちがユダヤ人たちと等しく、 キリストの福音を受け入れ、キリストのからだなる一っの教会を形造ることでした。 それはユダヤ人と異邦人を隔てる壁の大きさ故に、当初は不可能に近いことでした。 しかし使徒言行録に見るごとく、使徒ペトロ、パウロに主が臨み、壁は一つ一つ取り 払われて行きました。特にその壁を決定的に、あらゆる角度から破ることが、このロ ーマ書の目的です。しかし彼のそういう論議よりも先に、すでにローマの教会では彼 らは兄弟の間柄でした。事実が先行していました。というのは、ここにある名前を分 析するとユダヤ人と種々な異邦人たちが浮かんで来るからです。まずパウロの同胞の ユダヤ人はアンドロニコ、ユニアス、ヘロデイオン。また異邦人に属するローマ人と 思える人はウルバノ、トリファイナとトリフォサ、そしてヘルマスやフィロロゴには ギリシャ系の血筋の人だと考えられます。教会の現実はすでにパウロが願い、論じて いることを先取りしていました。彼がローマ書で論じている内容は、これらの名前を 通してうかがわれるようにすでに現実になり初めていました。それを彼は鋭く読み通 り、そこに神の示しを受け、それをさらに強力に推し進めることを使命としたと言ってよいでしょう。それを映し出している のがこの挨拶です。その意味でも、ローマ書の内容と一貫した、実に行きとどいた挨 拶だと言えるのではないでしょうか。

  もう一つ印象深いことがあります。パウロは一人々々の名を挙げ、その個性的な特 色を思い起こしてよろしくと言っていることです。たとえばプリスカとアキラには 1協力者」と呼び、エパイネトは「初穂」、マリアを「非常に苦労した一と言い、ア ンドロニコとユニアスは「使徒たちの中で目立つ一と表しています。決して十把一か らげの言い方ではありません。彼の内では一人々々の人格が鮮やかに浮かんでいるこ とがわかります。このような多様な表現と同時に、ほぼ一人々々について繰り返し、 ーキリスト・イエスに結ばれて」とか「主に結ばれて一、つまりキリストとその人ニの係わりを示す言葉が登場しています。ここにある人々の特色や個性は、先ほどの ッ族的な多様さとは違います。すでにキリストにあることによって生まれた一人々々 の個性的な特色です。それは何を思い起こさせるでしょうか。彼はこの手紙の二一章 からキリストにある新しい生き方を説きました。その冒頭に出て来るのが、「自分の 体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(1節)です。その次に 出て来るのが「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての 部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて 一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。わたしたちは、与えられた 恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(4壬6節)という言葉です。 個性豊かな一人々々の印象とキリストに等しく結ばれていることはこのように深くつ ながっています。キリストにつながり、その体を形づくることによって引き出された 個性であり、それはここにあるように神よりの賜物です。教会はこのような多様な賜 物をもって生きたキリストの体となります。その背後に立ち、その源泉こそキリスト の死と復活でしょう。このキリストに自分を献げ、キリストと共に死に、共によみが える途上に与えられるのが、その個性でしょう。すると、この挨拶は教会というもの の核心から出て来た挨拶です。それがどうして単に個人的な挨拶でしょうか。むしろ これは実に教会的な挨拶というべきでしょう。  最近のある学者がパウロの主な関心事を次の二つにあると指摘しています。それは 誰が真の神の民の成員であるか、ということと、その成員はどう生きるべきかだとい うことです。もしそうであるならば彼が強調する「信仰による義」は、ユダヤ人も異 邦人をも同じ条件の下におく唯一の基準です。この下にどのような違いをも越え、キ リストにより、人々は教会に招かれている。それを強力に、そして鮮明に証しするの が、キリスト.イエスです。その恵みの賜物に溢れた十字架の死とその死よりのよみ がえりです。この富を分かち合うために、私たちも兄弟姉妹の挨拶を交わしましょ う