ヨハネによる福音書20章11〜18節 牧師 橋爪 忠夫
主イエスの復活の後、その復活の証人の第一声はどういうものだったのでしょう か。それはマグダラのマリアが言った「わたしは主を見ました」(18節)という実 に単純なものでした。後に、パウロは自分が使徒であることをコリントの教会で疑わ れたとき、使徒であることの根拠をこう弁明しました。「わたしは……使徒ではない か。わたしたちの主イエスを見だてはないか…。わたしが使徒であることの生きた証 拠だからです」(コリントI、9章1〜2節)と、マリアと同じように言っていま す。これこそ世界に広がった教会が告げる中心的なメッセージです。私たちはこの声 によく耳を傾ける必要があると思います。
そこで主の復活を証しするこのひとことにはどういう背景と内容があるかを考えて みましょう。この声の主、マグダラヤのマリアは死者を葬った墓の前で経験したこと をこの言葉に託して表しました。これは墓の前での、主の復活の実に生々しい証言で す。
第一に振り返りたいのは、主イエスとマリアとのそれまでのつながりです。ルカに よる福音書にイエスと十二弟子の一行に奉仕する婦人たちの中で「七つの悪霊を追い 出していただいたマグダラの女のマリア」(8章2節)と呼ばれています。彼女はか って心身を蝕む多くの病に悩まされていたのでしょう。その彼女を主イエスは完全に いやしました。故に、彼女は主に対して言い表わせないほどの恩を感じていたに違い ありません。主の悲劇的な十字架の死の後、主の墓に急ぎ、墓の中に主の遺体のない ことを最初に発見したのも彼女でした。その空の墓の前で、途方にくれて泣きなが ら、何度も墓の中をのぞく様子、そして、現われた天使にも、また復活した主に対し ても、それとは知らず、主の遺体のありかを「どこに置いたか教えてください」(1 3、15節)と訴えているのも彼女です。恩を受け、尽きることのない感謝の対象で ある主の無残な死、そしてその遺体が葬られた所から失われたことで彼女は涙にくれ ました。愛し、敬う人の無残な死の衝撃を受容するのには相当の時間がかかります。 加えて、その遺体がないとはいったい彼女はどうしたらよいのかと途方にくれていま した。これほど、全神経が、主の死に釘付けになっている人がはたしているでしょう か。彼女にとってそこに復活の主が本当に現われなかったならば、とてもそこから他 に目を移すことができなかったはずです。「わたしの主が取り去られました」(13 節)と叫ぶ彼女は、「わたしは主を見ました」と言えるには最も遠いところにいた人 です。ここに確かに主の復活があり、彼女は墓の中にあるものとは全く別のものを見 ているという実感が私たちに伝わって来ます。
第二に主の葬りまでの経過が大変に慌ただしかったことに注目すべきでしょう。こ とは息つく暇なく、信じられないスピードで進んで行きました。木曜日の最後の晩 餐、ゲッセマネの園での苦悶の祈り、逮捕、翌朝にはユダヤ人たちによる最高法院 (サンヘドリン)と次にはピラトの前での裁判、そして十字架刑に至り、金曜日の午 後三時に息を引き取り、安息日が始まる金曜日の夕刻には、死体を刑場にさらすこと は律法によって固く禁じられるため、慌ただしく葬ったのが実情でした。当時では常 にあった遺体への香料による防腐処理もないまま、墓穴に葬られました。安息日の主 である方の一連の葬りのプロセスはまるで倍速で聞くテープの音のようです。東方の 古代人のことわざには「せかせるのは悪魔の仕業」というのがあるそうです。そのと おりこの狂奔は悪魔の仕業以外には考えられません。主を十字架の死に追い立てる舞 台の上には、祭司長、律法学者、長老たち、また群衆や兵隊、そして裏切った弟子た ちがあがっています。しかし隠れた監督者は誰でしょうか。それは悪魔でしょう。彼 はすべてを急がせ、慌てさせ、怒濤のように十字架の死へと追い立てます。立ち止 り、考えるゆとりを与えません。ある大学で責任をもつシスターが、構内のエレベー ターを待つ四秒の時間も待てない自分に気付いて肩を落としたということを私は読 み、強く印象に残りました。何か大きな見えぬ力によってせき立てられ、いらいら し、待てなくなっているのは現代の私たちの姿ではないでしょうか。しかしその正体 が何かはなかなかつかめません。これらすべては隠れた悪魔の仕業ではないでしょう か。特に隣人を、そして何よりも御心をもって私たちを見守る神さまを待つ余裕を持 てなくなるのです。その業はキリストを十字架に葬るという悪魔の業として、十字架 とその葬りに顕在化しています。悪魔の業は、巨大な力ですべてを追し流します。し かし同時にこのような形で、悪魔の業を私たちの目に見える十字架の死という大いな る犠牲を払いながら、顕在化したのは、他方では神の大いなる御業です。そこに大い なる神の御心が働いています。従って、主の十字架の死と復活の舞台裏では、神と悪 魔の戦いが行われているということが究極の真相でしょう。慌てているのは人間だけ ではありません。悪魔も慌てています。人の目から、救いの主の姿を葬り、そのつな がりを断ち切らんと慌てているのがその理由です。
そこでマグダラのマリアが願ったことは人間的に落ち着きを取り戻し、主の死を、 なきがらを手にして受容することでした。時を取り戻して、敗北を認め、泣くことで した。人間的に考えたなら、どうしてこれ以上のことが望めるでしょうか。しかし、 復活の主から発せられたのは、全く違う声でした。「なぜ泣いているのか」(13、 15節)です。そして、彼女の目を注ぐ、死と墓場、そして悪魔が急がせる先とは全 く違う方向から、復活の主の声が響きます。「マリア」(16節)よと。悪魔が人を 急がせ、そしてマリアが受け入れんとしたとは全く違うところに主はおられ、マリア よと呼びかけ、彼女に出会われる。その復活の主に彼女は出会いました。彼女が発見 したのは、墓の外に主は立っておられたということです。それは悪魔への勝利ではな くて何でしょうか。確かに彼女は「わたしは主を見た」のです。