マルコによる福音書2章23節〜3章6節 牧師 橋爪 忠夫
私たちにとって、休日とか日曜日があることはごく当然のことです。しかしそれが 何のためにあるかということを、改めて考えてみる必要があるのではないでしょう か。そう思わされるのは、主イエスが当時守られていた安息日について問いを投げか けておられるからです。単に人々の習わしになっていた安息日について、正面から議 論を挑んでいるように思えるからです。何のための安息日であるかと。
まず私たちの身近なことを例に挙げて、この問いが今日においても取り挙げるべき 正当な理由があることを示しましょう。以前に聞いたのですが、自動車事故の一番多 いのは休日明けの月曜日だそうです。けがや命を落とすような事故が日曜や休日の翌 日に起こりやすいとしたら、何のための休みかど思わざるをえないでしょう。そこま で行かなくとも、仕事の能率という点で、一番悪いのはやはり休みの翌日だというこ とを聞いたことがあります。そして今日では経済も低成長で、職場も休みが多くなっ て来ました。日曜日だけでなく土曜日も、またある程度の期間続けて休暇をとること も、それほどむずかしくはありません。休みは嬉しいものですが、他方その休暇をど のようにすごすべきか戸迷うこともあると聞くこともあります。これは掘り下げて行 くと、結局、いったい何のために休日はあるのか、本当の休息とは何かという問いに 帰するのではないでしょうか。主イエスが、ここで投げかけておられる問い、そして 答えられようとしていることは時代を越えて、私たちのためでもあるように思いいま す。スイスの神学者カール・バルトがキリスト者の倫理を論じた本の中で、まっ先に 日曜日を取り挙げているのを読み、人間の生き方は、まず休日や安息から正されなけ ればならないのか、と印象深く思ったことがありました。そして彼は彼が見かけるス イスの日曜日の午後の人々の気抜けした所在なげな様子を素描して、「このような休 日は、人から重荷を取り去って元気づけるところか、もっと重荷を負わせるだけであ る。祝日の本来の目標からはずれた単なる人道的見地だけの休日は、失われた日曜日 だ」と断じています。このような失われた日曜日こそ主イエスが問題としておられる のではないでしょうか。そして、それを回復することこそ、主がなさろうとされてい ることです。
主イエスの当時の安息日は大変厳しい掟のもとに守られていました。三十九の人の 動作が安息日を破る労働として禁じられていました。火を起こしたり消したりするこ と、六スタディン(約1km)以上歩くこと、また刈り入れや脱穀などがそれに該当し ます。また命に別状のない場合は、人を癒すことも禁じられていました。そういう背 景から、ここに起こっている出来事を理解すべきです。
第一の事件は、ある安息日に、多分会堂(シナゴグ)での礼拝の帰り道、イエスの 一行の内の弟子たちが麦畑で麦の穂を空腹のあまり摘み始めた.ことにより起こりま した。この行為は安息日を守ることに厳格なファリサイ派の人々にとって見逃しにで きないことでした。なぜなら、これはこの日に禁じられた刈り入れや脱穀の労働に当 たるからです。その非難は主イエスに向けられました。「なぜ、彼らは安息日にして はならないことをするのかし(24節)と。これに対して、主はダビデの例を挙げ、 彼らの信じる掟がすべてではないことを示しました。そして短いが、安息日は何のた めにあるのかを明らかにする深渕な御言葉を語られました。「安息日は、人のために 定められた。人が安息日のためにあるのではないい」(27節)つまりこれは、本来 人のため、その安息のためにあった安息日が、かえって人を不自由な、安息日の掟に 縛りつけ奴隷にしていることを語ったものでしょう。安息日がただ人の業として守ら れようとするならば、たちまち人を不自由なものとし、却って人から安息を奪うもの となる。これは安息は人に本当に大切で必要なものであるが、しかし安息とは人を越 えたものがなければ、安息とはならないことを示すのではないでしょうか。創世記や エジプト記に記された安息日の戒めは、神の創造のみ業の完成を神と共に祝うことに よって真に安息が与えられるものだからです。安息は人の業によって念を入れて完成 させようとすると、かえって失われて行く。安息はそれを人のための安息にする方が そこにいなければ、安息となりません。そこに「安息日の主」なる方が共にいなけれ ば安息は訪れて来ません。主イエスがご自分を安息日の主だと語ったことは大切で す。そしてそこに安息日の主がおられるのならば、そこに本当に安息が訪れます。空 腹な弟子たちが、麦の穂を摘む姿には、まことにとらわれることのない解放的で、自 由な様子が浮かびます。それは神の国を先取りしているとでも言って良いような安息 に満たされた自由さではないでしょうか。
第二の事件(3章1〜6節)も安息日、しかも場所は会ーの中でした。その会衆の 中に片手の萎えた人がおり、人々は主イエスがその人にどう対応するかを注目してい ました。主イエスはここではきわめて挑戦的です。安息日の何たるかを知らせる強い 決意をお持ちになっておられたのではないでしょうか。単に言葉による安息の説明で はなく、身をもって安息を示し、与えんとしていたように思われます。それこそ、安 息日の、安息を祝う会堂でなすべきことだと主は思われたのでしょう。片手の萎えた 人を会堂の真ん中に立たせ、人々にこう問うた、「安息日に律法で許されているの は、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(4節) と。それに対して人々は沈黙して答えられません。そこで主は怒りの目で人々を見回 し、人々のかたくなさを悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」(5節)と 言って彼を癒されました。安息日とは何のための日なのでしょうか。神の善意が潰 れ、その日こそ神が人の癒しのために、人の救いのために働くことが如実に明らかに なる日であります。神がそのように働くときこそ、人は本当に安息を与えられるので はないでしょうか。安息の主は、この日こそご自分が人のために働き給うことを示さ れたのです。そしてそのためにご生涯を歩んで行かれました