マルコによる福音書3章20節〜30節 牧師 橋爪忠夫
主イエス・キリストの重要な働きには、二つのことがありました。一つは、神の国 を御言葉によって宣べ伝えることです。それは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い 改めて福音を信じなさい」(1章15節)に集約されます。そしてもう一つは、その 神の国が来ていることを示すために、悪霊を追い出し、又病人の癒しの業を行うこと でした。今日のマルコ福音書の「ベルゼブル論争」と見出しがつけられた物語は、他 の福音書と違い、悪霊追放や癒しが、次々と記されている文脈の中に出ていることが 特徴です。冒頭の1章21節以下に、すでに汚れた霊に取りつかれた男の話がありま す。この男の「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体 は分かっている。神の聖者だ。」との叫びに対し、イエスが、「黙れ。この男から出 て行け」とお吃りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて 出て行った」とあります。また2章1節には、中風の人にむかって、「子よ、あなた の罪は赦される(赦されている)。」と宣言され、「わたしはあなたに言う。起き上 がり、床を担いで家に帰りなさい。」と命じられるのです。このように主イエスは、 神の国について語られるだけでなく、神の国が来ていることを人々に示すために、悪 霊を追い出し、病人をいやされ続けました。そして人々はこの類まれなる主イエスの 人柄と力にふれ、「その評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々まで広まった」(1章 28節)のです。マタイによる福音書12章23節以下にある同じベルゼブル論争の 記事には、目が見えず口の利けない人がいやされたのを見て、群衆は皆驚いて、「こ の人はダビデの子ではないだろうか」と語ります。この人こそユダヤ人が千年の間、 待ち望んだ神の国をもたらす救い主ではないだろうかというのです。人々はその業を 見て、喜びと讃美の声をあげました。(2章12節)しかし、他方、神の国がすでに 来ていることを示す力ある業をそのまま受け入れようとしない人々がいました。「あ の男は気が変になっている」と言われていたので、イエスを取り押さえに来た身内の 人たちがあり、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」というエルサレムから下 って来た律法学者たちがそれです。ベルゼブルとは旧約列王記下1章2節にあるバア ル・ゼブブから出て来た名前で、一般には悪霊の頭、悪霊の軍団の頭目(23節以下 ではサタン)と考えられています。イエスは、悪霊やベルゼブルの一味であり、「悪 霊の頭の力で悪霊を追い出している」(22節)となじり、イエスの悪霊を追い出す 業の裏には、癒しの美名に隠れたたくらみがあると断定してはばかりません。私たち にはこのような断定は主イエスに向けられたいかにも取って付けたような曲解であ り、言われのない中傷と聞こえるかもしれません。そのような曲解はそのままにして おいても、やがて消えて行くもののように思われるかもしれません。しかし主の対応 はそうではありませんでした。主はそのような曲解する彼らをわざわざ呼び寄せて、 たとえを用いて論争されました。(24節)正面に据えて対応されだということで す。それはこのような曲解がいかにも唐突のもののように見えながら、このマルコが 記して来たような次々に悪霊を追い出し、病人を癒す業を行うイエスの姿から起こり うる、ある重要な点を突いているからではないでしょうか。主イエスの業を「悪霊の 頭の力で悪霊を追い出しているしという評は極端な弁のようですが、端的に言えば、 これは主のみ業をそのみ言葉と引き離すという意図以外の何ものでもありません。主 は神の国をそのみ言葉で語られ、それが今、近づき、臨んでいることをその業で示さ れました。主の言葉と業は表裏一体であり、み業はその言葉の証しです。しかし曲解 者たちは、その業にのみ注目し、それをみ言葉から離し、神の国から引き離し、また 神からも離して、悪霊の頭目ベルゼブルと結びつけるのです。そこで神の国を示すは ずの業が、悪霊の頭目のたくらみにすりかえられるのです。主イエスの業にどんなに 目を見張っても、そのみ言葉に耳を傾けることがなければ、主のみ業の真意は明らか になりません。しかしその後、人々はいかに主の業のみに期待し、その言葉を聞こう としなかったことでしょうか。従って「悪霊の頭の力」に左右されているのは、主イ エスの方ではなく、かえって主の業を曲解した人々であり、後にみ業のみを求めたユ ダヤ人、そして多くの数え切れないほどの罪ある人々です。彼らこそ悪霊の頭目の下 にあることをさらし出し、暴き出すことこそ主の挑まれた論争の目的であると言えま しょう。そこにこそ神の国が力をもって臨んでいると感じられるのです。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立 たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」 「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道 具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(23 〜27節)の二つの例えは主イエスの口から出たとは思えないような闇の世界からと られた例えです。目つきの悪い悪党のボス同士の権力争いや強盗の手法が描かれてい るのはいささか驚きです。前者は悪霊やサタンも内輪もめして、自滅するほど愚かで ないということです。彼らは決して人に侮られるような失態を犯しません。後者は表 面的には人を襲い乗っ取り、奪う理にかなった方法を示すのでしょう。いずれも侮り がたいサタンの実態を浮かび上がらせます。ただここで大切なのはこれが主イエスの み言葉だということです。つまり主はこのような悪の実態の中に入って、実は神の国 の威力を示しておられることです。主は神の国が今来ているということは、このよう な悪の隠れた実態を白日のもとにさらし、これと戦い、さながら強盗の侵入のよう に、その強力な頭目を縛り上げてそのもとにある家財道具、すなわち人々の魂を奪い かえしているということの表明です。それはきれいごとでは描けません。主の命をか けたサタンとの戦いです。しかし、このような威力をもって神の国は主イエスにおい て、この世に来ているのです。それはどれほど力強いことでしょうか