マルコによる福音書4章21節〜25節 牧師 橋爪忠夫
主イエスは、ガリラヤの湖のほとりで、多くのたとえを使って、集まって来た群衆 にお教えになりました。今日の「ともし火」と「秤(はかり)」のたとえもその一つ です。たとえとはいつも物事をわかりやすくするだけではありません。そこに何かを 隠す謎であるとも言えます。
主イエスのたとえの中に隠されているのはいったい何でしょうか。神の国、あるい は神の支配や働きです。そのたとえの一つが、「ともし火を持ってくるのは、升の下 や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」で、もう一つは、 「何を聞いているか注意しなさい。あなたは自分の量る秤で量り与えられる」です。 これらを各々別々に読むと、そう難しいとは思えません。しかし、私には腑に落ちな いことがあります。それは、このたとえが一対だということです。普通、一対のたと えは、対になることで、より鮮明になることが多いのです。例えばマタイ5章の「あ なたがたは地の塩、世の光である」という一対です。塩と光は全然関係ないものです が、地の塩、世の光と並べられることで、キリスト者のこの世の存在がどんな小さく ても、大きな役目があることが、目に浮かんでくるわけです。ところが「ともし火」 と「秤」のたとえは、このように並んでいることで、どのようになるのか、どう結び 付くのかがよくわからない。そこで、この謎解きをして行きたいと思います。
ともし火と秤。それらは、当時の人々の生活を考えてみますと、生活上の要だっ た。大きなものではありませんが、これがないと生活が成り立たないという重要なも のだったのです。当時、ともし火は夜通し灯されていたようです。夜の生活は、この ともし人なしでは全くの闇でした。秤は、人々がパンを焼くためめに粉を量ったりし たのでしょう。よく考えてみると、我々の生活でも物の重さ、長さ、体積がわからな いと成り立たないことが多いのです。主は、ありふれた人間の生活を実によく見てお られた感じがします。その生活の要のものを見抜き、たとえに使って、神の国の話を された。主に招かれ、救われ、神の国に生きるとはどういうことかを生活の要である ともし火と秤を使って語っています。
このたとえから受ける第一の印象は、厳しい、一種の警告ではないでしょうか。我 々は、ともし火を升や寝台の下に置くようなそんなばかなことはしない。けれど、言 外に、我々がしていることをよく考えると、そんなばかなことをしているのではない かと思わないか。その愚かさを警告されているような気がしないでもない。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ る」というのは、旧約に出てくる二つの秤を持っているずるい商人のことです。物を 買う場合の秤と、売る場合の秤が違う。二重の秤を持っていて、量を偽るわけです。 しかし、ここでは「本当はあなたは自分の量るその秤で量られるんですよ」と一言わ れているのです。二つの秤。我々は同じ事でも、自分には甘く、人には厳しくすると いうように違う秤を使うことがないでしょうか。そういうことを考えますと、これも 我々への警告に思えます。
このたとえは、直接には、律法学者やファリサイ人への非難と考えられます。彼ら は、神の言葉を語りながら、人の行いを強調して、神の言葉がもつ憐みを升の下に隠 してしまうのです。神の言を語りながら、自分にあてはめる時は甘く、人には厳しく する。これが彼らの姿です。その姿がこの一対のたとえで浮かび上がってくるのでは ないでしょうか。しかも、それは我々にも共通するのではないでしょうか。神の言を 与えられ、本当に人の前に輝かしているでしょうか。
この一対のたとえは、確かに主イエスが人間の愚かさ、醜さを暴くために語ったと いう一面はあります。しかし、その鋭さをそのようにだけ取るのは一面的すぎます。 もっと大事なことがあるのです。それは最初に言ったように、神の国がたとえられて いるのです。この二つのたとえでなくては語れない神の国の姿があります。
ともし火とは何でありましょうか。それは隠れていて、やがてあらわになっていく もの。これはいったい何のことでしょうか。それは、イエス・キリストご自身です。 キリストと父なる神は神の国の主人です。しかし今はともし火のようにしか見えませ ん。主イエス・キリストは本来、ともし火などではありません。讃美歌27番はアン ブロシウス作の詩で、「あさ日とかがやく光の主よ」とキリスト(復活の主)を讃え ています。太陽であるキリストが、この暗い、様々な問題に満ちた世に、ご自分をへ りくだらせ、我々の身近にある灯のような姿で来られたのです。ベツレヘムで生ま れ、ガリラヤのナザレで育ち、生涯の終りは十字架の死で終わりました。目をこらさ なければ目に入って来ない目だたない灯。しかし、この灯が、やがて公然とその光を 太陽のように輝かすのです。そこに神の国があらわとなります。
しかも、その神の国は、神、主イエスがおられるだけではありません。彼がへりく だられたのは人々を招くためです。その招かれた人々も共にいなければ神の国ではあ りません。では、その招かれる人々はどういう人でしょうか。それはへりくだられた キリストをその人がどう評価する(秤る)のかによって、神の国にふさわしい者か、 そうでないかが逆に秤られるのであります。キリストに無上の恵を見る人は、さらに 恵を量り与えられ、それに価値を見い出さない人は、持っているものまで取り上げら れるのです。これが、この対のたとえの中にあらわれる神の国であります。
我々の教会は今年七十周年を迎えています。この教会の中にキリストはご自分を隠 されている。この教会をどう評価するか。この礼拝をどう過ごすか。これをもって、 我々は量られるのではないでしょうか。神の国は我々のただ中で動き始めています。 我々はそれを見つめ、隠れているところをよく見たい。なにより灯なるキリストを見 失いたくないのであります。