説教  望みを受け継ぐ 

 ペトロの手紙一1章3〜7節     牧師 橋爪忠夫

 今日はこの礼拝の後、年に一度の教会全体修養会が開かれます。その主題を「望み を受け継ぐ」としました。皆さんで、この主題のもとに有意義な会としていただきた いと思います。今回の主題は、今年、私たちの教会が設立七十周年を迎えていること と関係します。七十年の歴史を振り返り、これを記念するとはどういうことでしょう か。私はそれを聖書に問い、聖書から聞いたらどうなるかをしきりに考えて来まし た。その結果が、それは「望みを受け継ぐ」ということではないかと考えました。歴 史を振り返るとは単に過去に固執するのでなく、それを通して将来への望みへと導か れることです。

  この言葉は、ペトロの手紙一1章3〜5節からです。

  生き動き命あるものの動作を表現するために、種々な動詞を使います。歩く、走 る、投げるなどおびただしい。しかしそのような部分的なものではなく、それらすべ てを含む総体を現わす動詞もあります。たとえば人間の場合、生きるという語です。 もし教会の生命的な動作を一言で表わすとしたら、どういう表現になるのでしょう か。「福音を述べ伝える」、「キリストを信じる」…。しかし私はこの「望みを受け 継ぐ」ということも教会の総体をさす表現ではないかと思います。旧約時代は「約束 〔あるいは契約〕を受け継ぐ」ことは、イスラエル〔神の民〕の存在理由でした。そ して神自身も、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と言われるように、世代を越え た約束を与える方です。その受け継がれた約束の実現者がイエス・キリストです。し かし、彼の到来で約束が完了したわけではありません。「時は満ち、神の国は近づい た」(マルコ1章14節)であり、約束された望みの対象である神の国が一層近づ き、明らかにされ、キリスト自ら多くの人々にそれを述べ伝え、受け継がせようとし ているのです。それが彼の福音です。

  それではIぺトロ1章3〜5節は具体的に何を思い浮かべて望みを受け継ぐべきこ とを述べているのだろうか。結論的にはそれは洗礼です。また別名、新生と呼ばれま す。原文は副文章の交錯した荘重な長いセンテンスになっています。しかし整理して 言うと、次の二つです。

  一つは神は……死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした 希望へとわたしたちを新たに生まれさせたこと。二つは、天に蓄えられている、朽ち ず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐことへとわたしたちを新たに生まれさせたこ と。これが洗礼です。これによれ ば、洗礼とは「死を越えた天につながる望みを受け継ぐ」決定的な場面です。個々人 が洗礼によって新しく生まれたと同じように、洗礼とは教会の一つの働きだけでな く、教会自体が神の民として新しく生まれたことを思い起こさせるものです。洗礼と いう原型で教会の姿の総体を表しているのです。洗礼を通して見られる教会とは、ま さに望みを受け継ぐことにより、生きているのです。教会が歴史を振り返り、記念す るとは、これをしなければなりません。教会は主イエス・キリストの復活により、生 き生きとした希望を与えられている群れです。天に蓄えられた、朽ちず、しぼまない 財産を受け継ぐ群れとされています。

  教会が洗礼を執行し、またその洗礼を通して、新しい生まれ返りを経験すべきこと を何よりも示しているのが聖書です。パウロのローマの信徒への手紙は、六章の「キ リストと共に葬られ、キリストの復活により共に新しい命に生きるLという洗礼を土 台としなければ理解できません。また、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書も洗 礼を目ざし、洗礼を受けた人々のために書かれた福音書です。そこには私たちがどの ような望みが与えられ、どのように受け継ぐべきか、また福音の成立書自体も、望み を受け継ぐ作業だと言っても過言ではありません。 

 教会が「望みを受け継ぐ」ことを本質的な働きとしていることを自覚するときとは どういう時でしょうか。勿論、普段からそのことを心がけるべきです。しかし必ずし もそれが十分であるとは言えません。たとえば私は古代から中世の間に活躍したアウ グスチヌスという人を思い出します。すでにローマはキリスト教を受け入れ、それを 公の宗教としていました。五世紀の初期、ローマ帝国は新興のゲルマン民族・アラリ ックに侵され存亡の危機にみまわれました。栄華を誇ったローマが何故に、このよう に滅亡の危機に瀕するのか。誰言うとなく、それは代々のローマの神々を捨てだから だという俗見が幅をきかせることになりました。その最大の原因はキリスト教にある と非難と中傷を受けました。人々の懐く望みが絶たれようとするときの叫びには激し いものがあります。それに対する偉大な弁明の書が有名な彼の「神の国〔あるいは神 の都〕」です。ローマはキリスト教により、新しい望みが与えられている、今までの 望みはローマの滅びを乗り越えることができないのだと筆をふるいました。 

 それと並行して書かれた作「信仰・希望・愛」(エンキリディオン)の中には、ま ことの希望を述べています。「呪われよ、人間に望みを置き、内なる者を頼みとし、 その心が主から離れ去っている人は」(エレミヤ17章5節)を引用し、「主の祈 り」こそキリスト者の望みを語るものだと述べています。それだけでなく、「主の祈 り」こそ、まことの希望を生むのだと言っています。

  私たちの教会は設立七十周年を迎え、時あたかも、新しい二十一世紀を迎えようと しています。これは大きな時の区切りでしょう。二十一世紀に向かって、人々はいっ たいどのような望みをもっているのでしょうか。一国の存亡よりも、地球規模の存亡 が問われている今日です。受け継がれるべき望みはおろか、一世代にも耐えられるか どうかと、望みの旗印を降ろしかけている今日です。洗礼を原型にし、代々の教会に よって確かめられた望み、イスラエルの苦難を経、キリストの十字架の死によってか えって固められた望み、しかも神御自身が確約している望み以外に、受け継ぐべきも のがあるでしょうか。私たちはこの望みについて、説明を求める人々にあらゆる機会 に示したいと思います。