説教  神に献げ、人を愛す  

マルコによる福音書12章28〜34節   牧師 橋爪忠夫

 「神に献げ、人を愛す」という今年の年間標語は、大変に凝縮した言葉です。その内 容は実に豊かです。それを解きほぐすために、先ずこんな場面を想像したらどうでし ょうか。私たちの国でもよく国会中継という番組があります。時の首相に、各政党の 代表者が立って、国家の大きな懸案について質問を発し、それに対して答弁がなされ ます。主イエスもこのマルコによる福音書によれば、丁度そのような立場に立たされ ました。イスラエルの首都エルサレムの中心地、エルサレム神殿に姿を現した彼に、 イスラエルを代表する種々なグループの代表者が待ちかまえたように質問を浴びせま す。二つの問いかけをここでは例に挙げましょう。

  一つはローマの皇帝への納税が是か非かという間い(12章13〜16節)です。 これを発したのはファリサイ派とヘロデ派の人々でした。ファリサイの立場は納税は 非でした。彼らはローマ帝国に征服された当時のイスラエルが宗教的な自由と独立を 侵されていると憂いていました。一方、ヘロデ派とは時のローマの後押しにより君臨 するヘロデ王の支持者たちです。当然ローマヘの納税を推し進めている人々です。こ の二つの意見はまた、国論を二分していた大間題です。これに対して、主イエスの答 えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」(17節)という有名な答えで す。人々はこの答えに驚嘆しました。あまりにも見事な答えで何も返す言葉がありま せんでした。 

 もう一つはサドカイ派の人々が問うた問題です(18〜27節)。この問題の背後 には、死後の復活、世の終りについてのファリサイ派との年来の論争がありました。 サドカイ派は復活を否定するグループ、立場は保守的で、祭司階級の人々が多く、サ ンヘドリン(ユダヤの国会)の多数派です。その人々が、いかにも復活を否定せざる を得ないように意図的に仕組んだ問いをします。これに対して、主は、「大変な思い 違い」(27節)を指摘し、質問を一蹴しました。

  このような議論の様子を注意深く見つめていた一人の律法学者が主イエスに尋ねた ところから、この標語に凝縮される言葉、すなわち「第一の掟は、『イスラエルよ、 聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、あなたの神である 主を愛しなさい」(申命記6章4〜5節)、第二の掟は、『隣人を自分のように愛し なさい』(レビ記19章18節)、この二つにまさる掟はほかにない」(29〜31 節)が出て来ました。これに対してこの律法学者は「先生、おっしゃるとおりです。 本当です」(32節)と返し、主は「あなたは、神の国から遠くない」(34節)と 賞賛しました。 

 どうして、この律法学者との問答だけが他のものと雰囲気が違い、主の答え方も率 直かつ明快なのでしょうか。なぜでしょうか。「皇帝への税金」も「復活についての 問い」も、決してどうでもよいことではありません。重要な問いです。しかもこれら の問いは前者では「律法に適っているか」(14節)であり、後者も「モーセは書い ています」(19節)とあり、いずれも、これらについて旧約聖書ではどう言ってい るか、どう解釈するのかを問うています。納税の是非という国家的な現在の緊急事、 そして将来の復活の有無という大間題を聖書から聞こうとしています。これは確かに 悪意が込められているかもしれませんが、しかし実に真面目な問いかけです。私たち も、目の前に起こった問題について、聖書や神がどう言っているかと問うでしょう。 それは大切な聖書を読む者の姿勢です。これらがなぜ退けられるのでしょうか。主イ エスに受け入れられた律法学者の問いとどこが違うのでしょうか。実は大きく違うの です。律法学者の問いは「あらゆる掟(律法)のうちで、どれが第一でしょうか」 (28節)です。彼はあらかじめ、自分が抱いた問題を聖書に問うようなことをして いません。まず聖書が、神が何を第一に大事にするか、神が何を問題にし、大切にす るのかを問うています。これは問いそのものも、神の側から発し、神の見方、把え方 をまず聞いて、自分の問いを立てようとする姿勢です。決して自分の問題意識から、 それを聖書に持ち込んでいるのではありません。律法学者に主が実に率直に答え、彼 を賞めたのは、彼が神に対して虚心に聞こうとしたからです。それを根本の出発点に したからです。これは大きい違いです。私は以前に森有正という人のこう言う文章を 読んでハッとさせられたことがあります。「聖書は聖書自体が問うていること以外に は答えてくれないものだ」と。何人もの聖書の深い読み手がこのことを経験して来ま した。そして主イエスはこのように聖書自体から問いや最も重要なものを引き出そう とした人に、聖書の中心をお示しになりました。それは「神に献げ、人を愛す」とい うことなのです。神は私たちに対して、このような関心から私たちとこの世を見てお られるのです。神の眼差しはこの一点に向けられています。

  さてそれではこの点で私自身を間われたら、本当にそれに従えるでしょうか。 「心、精神、思い、力」の限りを尽くして全面的に神を愛しているか、隣人をあたか も自分のように愛しているでしょうか。これに「しかり」と答えられる人はいませ ん。私たちの神に向け、人に向けられる愛は部分的で、ゆがみ、否、愛するとは逆の 場合もあるからです。それではこれは無理難題でしょうか。 

 この主の言葉がいつ、どこで語られたかに目を注がなければなりません。三日後に はエルサレムのゴルゴタの丘で十字架にかけられるのです。そして死より復活される のです。「神に献げ、人を愛す」という聖書に示された言葉は、主の十字架の死と復 活によってしか成就しません。これは聖書の示す中心に、深く従った主の十字架への 道以外では成し遂げられません。「ひとたび己を全き犠牲として神にささげ」られた 主を受入れ信じ、そこから心も、精神も、思いも、力も与えられなければ、不可能で す。「神に献げ、人を愛す」とは主イエス.キリストの道、このキリストと一つにな り、キリストが私たちの内に生きて、初めてできるのです。そのキリストを描き出し ましょう