説教 イエスの帰郷
マルコによる福音書6章1〜6節 牧師 橋爪忠夫
近年、「老人力」という新しい言葉が登場しましたが、これを借りれば、私たちに とって「故郷力」とはどういうものでしょうか。私自身にもふるさとがあります。故 郷というものには何とも言えない不思議な力があります。昔、見た本の中に、これは 上野駅が東北に向かう列車の玄関口だった頃の様子を書いたものですが、「列車が出 発のベルとともに、東北に向かって動き出す。すると客車の中がにわかににぎわい出 した。皆一様に口が軽くなり、東北の国なまりで隣の席の人々と話し出した」という ような一節を読んだことがあります。私は数年前まで仙台に居ましたので、こういう 風景を度々見て来ました。一口に言えば故郷力とはこういうものでしょう。ふるさと とは普段の都会の生活で、どこか緊張し、取り澄ましていた気分を、緩ませ、解か せ、理屈抜きの親しさ、慕わしさを味わわせてくれるものです。 そういうものを思い浮かべながら、今日のテキストの主イエスが郷里のナザレに帰 った場面を想像できるのではないでしょうか。 まず初めに、私はイエスの郷里の人々の反応は、無理もないという立場から紹介し てみたいと思います。 主がナザレを出て、一、二年後のことでしょう、「イエスは……故郷にお帰りにな ったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」 (1〜2節)とありますが、この様子は当時の人々には、典型的な律法の教師として 映ったことでしょう。弟子を従え、会堂で教えるのがこの教師たちのごく普通の姿で したから。それにしても故郷の人々は主の変わりように目を見張ったことでしょう。 それだけではありませんでした。その教えは「この人は、このようなことをどこから 得たのだろうか」(2節)と驚き怪しむほどのものでした。それが具体的にどういう ものであったかがルカによる福音書4章16節以下に記されています。 「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわ たしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に 解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵 みの年を告げるためである』(イザヤ書61章)……中略 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現し た』と話し始められた。皆はイエスを一ほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚い た」(18〜22節)と生き生きと描かれています。これは最早、普通の律法の教師 の説き明かしではありません。権威に満ちて、神の言葉の実現を宣言しているからで す。このように語れる人はどこにも居ませんでした。そしてこの驚きは、郷里の人々 に、それは本当なのか、それを語るのは、いったい話なのかという間いを呼び起こし ました。人々の驚きは、他の地方では多くは神への賛美へと向かいましたが、もう一 方でこのような問いを引き起こすことも不自然ではありません。というのも、ナザレ の人々にとって、主イエスは見覚えのある人でした。この同じ会堂で、つい最近まで 見慣れた人、いや彼らの仲間でした。従って驚きから、「この人が授かった知恵と、 その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリ アの息子で、兄弟、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(2〜 3節)というのは当然の反応だと思います。その生い立ちや育ちを知るが故に、かえ って人を見誤ることは往々に起こることです。勿論この反応をすべて良しとするわけ ではありませんが、しかし、この反応から、主イエスが、まことの人間であったとい う一面が示されていると患います。実に人間らしい、人間的な反応を受けられたとい うことです。 しかし見逃してはならないのは、こういう故郷の人々の人間的な反応を主イエス は、あるいは聖書はどう見ているかです。それは、「このように、人々はイエスにつ まずいた」(3節)と「そして、〔イエスは〕人々の不信仰に驚かれた」(6節)と いうことです。特に後者の主の驚きは強いものです。郷里というものにみなぎる安堵 感や、傷をいやし、本音で人と語り合えることも、しかし主イエスにつまずき、その 不信仰を主が驚かれるという一面を持っていることに気づくべきではないでしょう か。それらは主イエスの前に立ちはだかる大きな壁でした。その根本には、、主を 「マリアの息子」と見るだけで、マルコによる福音書が最初に掲げる「神の子」と見 られなかったことがあります。故郷力に代表されるこの世の力、人間的な力は、人々 を救い、引き上げようとするために来られた神の子キリストにとって大きな闘いの相 手でした。 その悔ることできない力に抗して、主が救いとして語り、なさった一事は、これで した。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15 節)です。人々に神の国という天にあるふるさとをヲすことでした。悔い改めとは文 字通りは方向転換であり、旧約では「帰る」ことです。天にある故郷に、帰ることを 促すのが、主の訴えです。イエスのたとえ話も、奇跡も皆、神の国が私たちのふるさ ととして決して見劣りするものでないこと、いやそこには私たちを迎えようとする本 当の主人である神がおられ、喜ばしさと甘味に満ちていることを委曲を尽くして主は お示しになられました。ここへと向かおうとしないナザレの人々は「イエスにつまず き、その不信仰を彼が驚かれた」のです。 その意味で私たちが礼拝を繰り返し守り、特に今日のように主の聖餐に写ることは 大切です。来るべき天のふるさとを本当に私たちの故郷とする備えが、これを通して 私たちにそなわり、ただ言葉だけでなく、身にも心にもなじんで来るからです。そこ にはこの世を永遠のふるさととする大きな力がぬぐわれ、天をふるさととして見上げ られるため「今日、写したときに実現したという」キリストの不思議な力が働いてい ます。昔、信仰の父アブラハムが聞いた主の言葉を思い出しましょう。「あなたは生 まれ故郷父の家を離れてわたしの示す地に行きなさい。わたしはあなたを祝福し、あ なたの名を高める祝福の源となるように」(創世記二一2S3節