説教 五つのパンと二匹の魚

 マルコによる福音書6章30〜44節        牧師 橋爪忠夫

 古くからキリスト教を表すいろいろなシンボル・マークが使われて来ました。その 代表的なものは、十字架でしょう。しかし十字架以外にも、もっと古く、よく使われ たマークが幾つかあります。その一つが「五つのパンと二匹の魚」です。今日の週報 の表紙にあるのは、その例として、ガリラヤ湖畔の現在のタブハに遺っている、五世 紀の礼拝堂の跡の床のモザイク画です。五つのパンと二匹の魚の図案は、他にもロー マ帝国の迫害下にあった初代教会の地下礼拝堂やキリスト者の墓石にも残っているそ うです。これがキリスト教を表すシンボル・マークとなっているのは、それなりの理 由があることでしょう。この五つのパンと二匹の魚に、初代や古代の教会の人々が強 い印象をもっていたからに違いありません。単に教会を飾る創作デザインというので はないでしょう。  マタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネ福音書とのいずれにも載っている主の ガリラヤ時代の記事で、この五千人の給食はその最たるものです。特にヨハネ福音書 はその第6章で詳しく報告しています。しかもそれが意味の深い象徴であることにま で踏み込んで語っています。  五つのパンと二匹の魚の記事はいったい何を物語っているのでしょうか。私はひと 言で言えば、一つは「貧弱」ということだと思います。  ここで弟子たちは主イエスに、集まった群衆に「あなたがたが彼らに食べ物を与え なさい」(37節)と命じられた。そこで見つけたのがパン五つと魚二匹でした。こ れは誰にもわかるように五千人の群衆を満たすにはあまりにも貧弱な食物です。貧弱 を象徴するような量です。と同時にこの少量の食物のもつ貧弱さは、もっと他のこと をも象徴しているのではないでしょうか。群衆たちは何か飢えるような姿で、主イエ スと弟子たちを人里離れたところまで追い駆けて来ました。その姿をイエスは「大勢 の群衆の、飼い主のいない羊のような有様」と表し、「深く憐れ」んだ(33節)と 記しています。もし羊たちに、群を導く羊飼いがいなければ、たちまち生死の危機に 陥るのは火を見るよりも明らかです。二匹と魚と五つのパンは、単に群衆たちのパン ではなく、それを給する羊飼いの欠けを象徴しているのではないでしょうか。その貧 しさは何か根本的なものです。さらにこれら二種類の食物によって、人に対して救い の手を差し伸べるべき弟子たちの貧弱さも象徴されているでしょう。他の福音書には 「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」(ルカ9章13節)と、「わた したち」と、「しか」という強調をしています。食を提供する弟子たちの貧弱さが目 立っています。それは意味深いことではないでしょうか。主イエスの仕え手として人 に助けを与えるとき、大事なことは自分の貧しさを知ることです。決して自分たち自 身でできるのだという自信や慢心ではことは果たされません。むしろ五つのパンと二 匹の魚にすぎないのだ、自分たち自身の力では不可能なのだということを知らねばな りません。主イエスは弟子たちに「あなたがたが彼ら〔群衆〕に食べ物を与えなさ い」(37節)とほとんど信じがたい言葉を語られた意図は、そこにあったに違いあ りません。  しかしこの五つのパンと二匹の魚は、「イエスが取り、天を仰いで賛美の祈りを唱 え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された」とき、 「すべての人が食べて満腹し」(41節)ました。何と不思議な、人を満ちた走らせ る奇跡でしょうか。この光景をただ五つのパンと二匹の魚でいかにしたら五千人を満 腹させられるのかを、この世の算術を振りかざして解こうとするのは愚かなことで す。それよりも、五つのパンと二匹の魚を手にとった主イエス・キリストの姿は何と 光輝いていたことでしょうか。御顔を天に向け、父なる神に賛美と感謝の声を上げ、 何一つ疑うことなく弟子たちにそれらを配らせる主の御姿は、どれほど印象深いこと でしょうか。それは弟子たちの目に焼きついた光景でした。後に主イエスの復活した ことが信じられなかったある弟子たちが、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスは パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が 開け、イエスだと分かった」(ルカ24章30〜31節)とあるほど、この主の御姿 は弟子たちの目に焼きついていました。五つのパンと二匹の魚が五千人もの人を満ち 走らせることができたのは、主イエスご自身によるところ大です。主イエスがそれら を取り、天の父を讃え、パンを裂かなかったならば、このように大きな祝福をもたら すものにはなりません。そういう意味で五つのパンと二匹の魚は、この時のイエスを 指し示す象徴です。これら二つの食べ物は主イエスの手の中にあります。あるいはこ れらは主イエスの不思議なわざとご生涯を象徴しているのではないでしょうか。主イ エスがこの貧弱なものを五千人を満腹させるものに変えられたということは何を物語 るのでしょうか。それは単なるマジックではありません。主イエスのご人格とその生 涯によるのです。パウロは適切に、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧 しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」 (「コリント8章9節)と述べています。主の、天の父に対する賛美の祈りは、飼葉 桶の寝床から十字架の死に至るまでの全生涯をその内容としています。そのご生涯の 事実が、祈りと深く結び合っています。そしてその祈りは、五つのパンと二匹の魚に すぎない貧弱な弟子たちを用い、実に飼い主のいない羊の有様の大群衆を満ち足らせ るのです。この両者に皆さんも当てはまることを信じていただきたいのです。これは 遠い昔のガリラヤ湖畔での物語に終わるのではありません。  最後に、この記事の終わり方に注目しましょう。実に淡々と驚きなく、終わってい ます。「パンを食べた人は男が五千人であった」(43節)と何か普段の食事が終わ ったかのような平静な書き方です。それはこの食卓がいつまでも続く食事、教会が繰 り返す聖餐を暗示しているからです。一大奇跡でなく、これは繰り返される恵みの食 卓です。ただ驚いてばかりはいられません。