説教 復活日の震えと驚き

マルコによる福音書16章1〜8節      牧師 橋爪忠夫  

今日は、救い主イエスの死より復活したことを記念するイースターの礼拝です。ご 一緒にこのイースターの日の出来事を思い描き、その事実に触れ、心からお祝いしま しょう。  それにしても、この出来事を伝えるマルコ福音書は、この8節がこの福音書の事実 上の終りだと言われますが、非常に素朴で、舌足らずの観をまぬがれません。こう終 っています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そ して、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と。これはいささか異 常な終り方です。もっと違ったものが加わっていたらと私たちは思うのではないでし ょうか。  そしてもう一つ気になるのは、その後に「結び一とか「結び二」とあって、[ ] 付きの文章が続いていることです。これにも疑問が起きるのではないでしょうか。  後者から説明すると、そもそも私たちが手にしている「聖書」がどのようにしてこ の二千年間に伝えられて来たかを振り返らなければなりません。聖書が伝えられて行 く過程そのものに大きなドラマがあります。近代になってその過程が研究され、幾つ かの写本が発見され、伝えられた過程が明らかになって来ました。そして中でも4世 紀頃のヴァチカン写本、シナイ写本等が有力なものであるという評価が定まりまし た。いずれもギリシア語で表されたものです。実はこういう有力な写本は、この8節 で終っています。それが8節を終りと見る根拠です。しかし他の写本やこれまでの読 み方を重んじ、補遺として加えられています。しかしここで興味深いことは、この新 約聖書の一番の大本は何かということです。あるのは大変古い、源に近い写本のみで す。では大本は何か、それは文字では表せません。復活した生けるキリストです。聖 書はキリストを証ししますが、決して聖書がキリストの上に来ることはありません。 あくまでその源泉は生けるキリストです。聖書の文字を、理性で追求してもおのずか ら限界があります。これがとても興味深いのです。  さて、主の復活を「墓の中にいた白い衣の若者」(5節)に知らされたマグダラのマ リア、ヤコブの母マリア、サロメらの「震え」と「正気を失う」、そして恐れと驚き に戻りましょう一この婦人たちは墓の中にいた白い衣の若者を見ても「ひどく驚い た」(5節)とあります。そして「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを 捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めし た場所である」(6節)と告げられ、婦人たちは墓を出て逃げ去りました。驚きは頂点 に達し、震え上がり、正気を失うほどでした。私たちはこの極度の驚きを見落として はならないと思います。それは主の復活がどういうことかということの大事な一面を 伝えているからです。この驚きがどれほど大きいものかは、こういうことを振り返っ てみてもわかります。この三人の婦人たちは三日前に主の壮絶な、また恐ろしい十字 架の死の場面を弟子たちのように逃げ出すことなく、最後まで見届けていた人々でし た。そして主が息を引き取られたとき「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け た」(15章38節)という具象も知っていました。しかし、それらにもそう簡単に驚 き、正気を失う人々ではありませんでした。しかし、ことこの主イエスの復活の出来 事には心底から驚き、正気を失い、震え上がりました。これはどういうことなのでし ょうか。この素朴な反応が、かえって真実さを物語るのではないでしょうか。彼女た ちは、何か圧倒的な、今だかつて経験したことのない事実に出会っているのだと。そ してそれに我を忘れているのだと。そういういわば感嘆符でこの福音書が事実上終っ ていることは意味深いのです。私たちのことを思い出しても、人が今だかつて経験し たことのないことに触れたとき、そう簡単に言葉で表せるでしょうか。事柄や意味を すぐ人に語れるものでしょうか。そうなるには相当の時間がかかるのは当然です。  私にはもう大きくなりましたが四人の子どもがいて、彼らの幼い頃の物事に対する 素朴な反応に時々、目を見張らされる経験をしました。そんなことから、ニュースや 新聞で大きな災害や戦禍が起ぎるとき、そこにいる子どもたちはどうなのかと気にな ります。彼らは、その全身に受けた未曾有の経験を、簡単に言葉や感情で外に表せま せん。しかし心には深い傷を負うということです。そしてたとえば絵を描かせると、 なぜか真暗な絵になるということです。言葉になるのには相当な経過が必要です。こ れは暗い例かもしれませんが、人が未曾有の、圧倒的な事柄に出会っている場合、同 じでしょう。  私たちがすべての人の宿命と見、これ以外に確かなことはないと信じている人の死 が打ち破られて、あれほど確かにその死を見届けた主イエスが復活なさったというこ とは、本当に圧倒的な、未曾有の出来事です。それは死が人間の究極にあるという座 から引きおろされるということです。その方がガリラヤに先に行かれ、弟子たちと再 びお会いになる(7節)ということは震えをともなう驚きの出来事です。それが真実 で、大きいことである故に、そう簡単にこれを受入れ、対処できるものではありませ ん。彼女らが、物も言えず、そこから逃げ去ったこともうなずけます。しかし、確か にそのままではありませんでした。五十日後のペンテコステにはこの婦人たちをも含 め、主を信じる弟子たちは「主の復活の証人」として立ち上がりました。ただし五十 日という時が必要でした。その間に、復活した主は、たびたび弟子たちや婦人たちに ご自身を現し、また何よりも、この主の復活の出来事を語れる言葉を、またどのよう な形で表現されるべきかを教えられました。そして何よりも、その言葉や表現は聖霊 が共にいて下さって可能となりました。私たちもその経過の中にいるのではないでし ょうか。それを通して主の復活に出会っているのではないでしょうか。  主の復活の事実はいわば彫刻の原木、宝石の原石のようなものです。それらは私た ちを通して彫られ、形造られ、磨き出されることを待っています。その第一の表現が 復活の日に守られる主の礼拝です。私たちもこれを喜びをもって表現しましょう