説教 食卓からこぼれる恵み

 マルコによる福音書7草24〜30節    牧師 橋爪忠夫 

 地中海に面したティルスの町のある家を、主イエスがお忍びで訪ねたとき、シリ ア。フェニキア生まれの女の人と出会い、興味深い、機智を交えた対話が起こりまし た。この対話に出て来る彼女の一句、「パン屑」(28節)に注目させられます。と いうのは和たちの普段の生活で、あまりこれを顧みることがないからです。もちろん 当時もそうだったに違いありません。しかし当時の食卓から出る「パン屑」は、今日 のそれとはだいぶ違います。当時の食卓では、はし、フォーク、スプーンなどの道具 がなく、よく洗った素手で直接、食べ物を口に運びました。途中で手が汚れたときナ プキン代わりにしたのがパンのかけらです。従って私たちが想像する以上パン屑が食 卓からこぼれ落ちたと思われます。それは多くの場合、顧みられることなく、食後 に、召使いによって掃き集められ、捨てられたことでしょう。しかしこの女性は、こ のパン屑に新しい光を当てました。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン 層はいただきます」と。それに対して、主イエスは答えます。「それほど言うなら、 よろしい」と。これは主イエスがこの女性のパン屑でさえも求める熱心さ、また当意 即妙の機智に動かされたということでしょう。そして主はこう続けられました。「家 に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」(29節)。これは本来、食 卓の話ではありませんでした。この女性の悪霊によるたちの悪い病に冒された幼い娘 のいやしでした。それがどういうわけか、食卓のパンの話に置き換えられているので す。  まず注目したいのは、どうして主イエスに期待された病のいやしが、食卓のパン屑 の話に置き換えられたのでしょうか。そのように置き換えた原因は主イエスにありま した。「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追 い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせな ければならない。子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』ところが、女は 答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきま す』」(26〜28節)が、この対話です。この場が、実際に食卓を囲む場であったことを 暗示するものは何もありません。しかし主は、いやしの願いを、食卓の話題に切り換 えて答えられました。しかもこの女の願いも、予期しなかった唐突なものでした。こ ういうとっさの願いに、食卓のたとえで主が応じられた理由は、主の胸の内にいつ も、食卓の映像があったからではないでしょうか。神の国での、神を中心とする食卓 が主の胸の内に描かれていたからではないでしょうか。その意味で、この福音書の6 章30節以下にあった、主が五千人の人々と食事を共にした、いわゆる「五千人の給 食」の出来事と深くつながっています。主が食卓に話を切り換えたのは、その食事を 思い出していたからです。そしてこの女性が食卓からこぼれる「パン屑」で応じたの は、単に機転が利いたのではなく、主の胸の内にあるものを察した感があります。こ の対話は、従って、決してこの場限りのものではなく、もっと大きな背景をもってい るのではないでしょうか。  この対話の背景には、二つの食事があるのではないでしょうか。一つは出エジプト 記16章にある荒野の旅での食卓、もう一つは先に触れたマルコの6章の五千人の給 食です。前者は、エジプトで奴隷の民であったイスラエルがそれから解放され、四十 年間、荒野の旅を続け、その間、マナという不思議な天からの食物に養われたことを 記しています。この食事は神の民イスラエルを形造る大切な食事でした。この時代の 食事を象徴する次の言葉が印象に残ります。「ある者は多く集め、ある者は少なく集 めた。しかしオメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた 者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」(17〜18節)つまり、一 日分の食事にのみ過不足なく与えられました。パン屑の出る余地はありませんでし た。神の恵みを現わすこの食事は、イスラエルの民に集中していました。これが旧約 時代を代表する神の食卓です。  しかし後者の主イエスが、この荒野の食卓を思い起こしてされた五千人の給食の食 事は、それと深くつながりながら、次の点で異なっています。すなわち五つのパンと 二匹の魚が、主の天を仰いでの祈りとともに、五千人を満腹させるものとなりまし た。しかも注目すべきことに、「パン屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱい になった」(43節)とあります。ここにはパン屑が溢れています。いったいこのパ ン屑が多く出たということ、そしてそれはだれのためでしょうか。キリストの恵みの 食卓は、食卓を囲んで座っている人に対してのみでなく、その恵みはそこからこぼ れ、溢れているのです。これが旧約に対して新約を表わす食卓、異邦人をも恵みに招 く主の食卓です。この二ツの食卓がこの対話の背景にあります。  そこで問題になるのは、主イエスがこの女の人に、いかにも時計の針を逆回りさせ て、旧約の時代に後戻りさせるような、「まず、子供たち〔イスラエル〕に十分食べ させなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」とどう して言われたかということでしょう。もちろん主イエスが、この言葉を通して、神の 恵みの旧約的背景をこの女性にも、私たちにも振り返らせていることにひとつの意図 があったことでしょう。しかし、もっと大胆に言えば、キリストご自身ではなく、敢 えてこの女性を通して、キリストの真の意図を語らせることが、主の望まれていたこ とであったのではないでしょうか。それを彼女の口から、引き出すのです。キリスト は他人から孤立し、全くおひとりですべてをなすようなお方ではありません。敢えて 人に、ご自分の言葉を委ねて、人に余地を残しておられるのです。単に目に見えるパ ン屑に恵みが溢れるのみでなく、この女性自身が主の溢れ出る恵みそのものになるの です。これが主の食卓から溢れ出る恵みです。