説教「つまずかせるものを除け」
聖書マルコによる福音書9章42〜50節 牧師 橋爪忠夫
ここに記された主イエスの言葉は、もしこれらが私たちに向けられたものである
ならば、思わず身を翻したくなるほどの激しいものである。冒頭の「わたしを信じる
これらの小さい者の一人をつまずかせる者は、おおきな石臼を首に懸けられて、海に
投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)という言葉を初めとして。
まず、これらがマルコ福音書の全体の流れの中で、どこを舞台背景にしているか
ということから述べたい。というのは、これからの言葉の激しさは、単に聞くものに
衝撃を与えるためよりは、この福音書がたどる主イエスの足取りと深く係わっている
ように感じられるからである。マルコ福音書の記す主の活動舞台は大きく三つに分け
られる。1〜8章まではガリラヤ湖を囲む地方、そしてこの9〜10章の中盤はパレ
スチナの北方(多分ヘルモン山のふもと)からガリラヤを経由して弟子たちとともに
エルザレムヘ向かう旅の途上であり、最後は11〜16章のエルサレムでの十字架の
受難と復活である。だから、これらの過激に感じられる言葉は、主イエスがガリラヤ
からエルサレムを目ざして進む旅の途上で語られたという背景を見逃してはならない
であろう。その途中で弟子たちに語られた鮮明で、心に食い込む教訓である。
次の二つの教訓を取りあげたい。一つは42節にある他の人をつまずかせる人に
向けられた警告である。「わたしを信じる…一人をつまずかせる者は、大きな石臼を
首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と。大きな石臼とは手
で回す小ぶりの臼ではなく、ろばに回させる大きな石臼であり、それを首につながれ
て、海に投げ込まれれば人の命はひとたまりもない。この警句から主イエスが弟子た
ちに対して、小さい兄弟の信仰を守る責任の重さをどんなに強調しているかがわか
る。と同時に、海とは、主がそこを離れようとしているガリラヤの湖であり、何より
厳しく戒められているのは、他の人をつまずかせること、すなわち、目標に向かう歩
みを妨げることである。それは主イエスのガリラヤからエルサレムに向かう旅に人が
付き従うのを妨げることである。これはさらに大きな妨害となるであろう。
他方、主は弟子たちに、自分たち自身に向けられる「つまずき」もいかに多いか
に注意を促す。,そのつまずきを、「もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切
り捨ててしまいなさい」(45節)と言い、さらに「片足」(46節)、「片目」
(47節)と続けるように、彼ら自身の一部が次々とつまずきになるのである。人間
の内から起こるつまずきは限りない。それらのつまずきは、彼らを神の国の命にあず
かるのではなく、途中でつまずかせ、対極にある地獄に投げ込む(43、47節)。
ここでつまずかせるとはどういうことかが明瞭である。神の国の命への歩みを妨げ、
地獄へと投げ込むのである。それは、反対から言えば主イエスのガリラヤからエルサ
レムに向かう旅が、実は弟子たちにとって、また彼に従う人々にとって、神の国の命
に与る歩みとなることを示しているのではないか。主イエスはその命に与るのを妨げ
るものを取り除けと厳しく命じておられるのであろう。ここで地獄という言葉に注目
させられる。聖書全体の中でも、とりわけこの箇所で地獄が繰り返されている。これ
はここだけに見られる珍しいものだ。聖書には人間が想像するような、不気味な地獄
はほとんどない。ここも、原語では、エルサレムの城壁の南側に接するヒンノムの谷
を指すゲヘナという言葉である。この谷は、汚れた場所、都エルサレムのごみや廃物
の捨て場所で、そこにはいつも焼却の火がたかれ、腐敗物に蛆が絶えなかった。なぜ
エルザレムヘ向かうイエスは、光輝く都エルサレムの様相ではなく、エルサレムの汚
れや捨てられた物を引き受けるヒンノムの谷を語られたのだろうか。それは弟子たち
に自分がつまずいた末に投げ込まれる所を想像させるだけでなく、ご自分が向かうべ
きエルサレムの真の様相を思い浮かべていたのであろう。主イエスが向かった都エル
サレムはヒンノムの谷(地獄)に比べられるようなゴルゴタの丘(刑場)であった。
主イエスは強い決意をもってエルザレムヘの道を進まれる。その途上で、これら
の激しい言葉が語られた。その激しさはどこから来るかは、次の二つに要約される。
一つは、主イエスの足取りに従う歩みからつまずき迷い出ることが、取り返しのつか
ない結果になるということだ。それ故、つまずかせるものを取り除く犠牲を恐れては
ならないということだろう。しかしこれは逆説的な言い方である。表から言えば、主
イエスの歩みに従うことは、どんな犠牲を払っても惜しくないほどの素晴らしいもの
である。それは神の国へ入ることであり、その命に与ることである。しばしば、大き
な恵みは、逆説的に、反語的に語られることによって、私たちにその素晴らしさを気
づかケてくれるものだ。
もうひとつは、神の国の命に入るためのつまずきを取り除くこと、それは人の首
に大きな石臼をかけて海に沈めたり、片手、片足、片目さえも切り捨てるほどの犠牲
があるとは、どういうことであろうか。それは直接には弟子たちや私たちが払う代償
と映るであろうが、エルサレムを目ざすイエスの固い決意からは、別の意味があるこ
とに気づかされる。この9〜11章で主イエスは三度も、ご自分の運命を「人の子
は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と弟子たちに
語っておられるならば、人々が神の国の命へ入るために、過酷なほどの犠牲を払おう
としているのはまず主イエスご自身ではないか。重い石臼を首にかけられ殺される、
また片手、片足、片目を奪われるほどの過酷な犠牲とは、主の十字架の死を暗示する
ものではないか。私たちが払う犠牲よりも先に、主の大きな犠牲があった。つまずき
を取り除く主の犠牲があった。しかもその犠牲によって、私たちには神の国の命に入
る道が与えられているのである。
私たちもエルザレムヘ向かう主の足取りをたどって、この足取りを拠り所とし
て、神の国の命への歩みを進めたい。