マルコによる福音書10章28〜34節 牧師 橋爪 忠夫
今日は教会の全体修養会の日であり、私たちが今年掲げて来た「神に献げ、人を 愛す」という主題に、「キリストを証する」という副題を付して学ぶことにしまし た。その内容を見出しに表わした次の三つにいたします。
1 聖書を読む
まず、この聖書箇所の場面を振り返ってみましょう。主イエスがユダヤの中心 地、エルサレムに入場されて、人々から質問を受け、議論する場面が続いています。 そして最後の質問者がこの一人の律法学者でした。彼は主イエスの前に進み出、「あ らゆる徒のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)と間いました。これは決して とっさに思いついた問いではありません。こう問うまでにかれはじっと主イエスの受 け答えを見守っていたようです。またさらに、私も牧師として聖書についての質問を 受けることがありますが、その質問は時として、その人の聖書の読み方や生き方を背 景にして発せられていると感じることがあります。彼は律法学者でした。律法とは旧 約聖書のこと、彼はこれをこよなく愛し、日々熱心に研究し、また人々にも教える立 場にありました。当時、旧約の中に613の徒があると言われ、さらにそれらの解釈 によって徒は増えていく傾向にありました。他方で、当然それらの第一のものが何か という議論がされていました。これは言い換えれば、聖書の読み方の基本は何かとい うことでしょう。彼自身が最も知りたいことはそのことです。それを主に問いまし た。私たちもプロテスタントのキリスト者として、聖書を読むことを大事にしますか ら、これに似た問いをもつのではないでしょうか。聖書の多様な諸文書を読めば読む ほど、第一のものは何か、聖書の基本は何かと問いたくなります。それは聖書を読む 者の内に起こる止みがたい問いです。ここで重要なことは、律法学者がしているよう に、まずそれをキリストに問うことです。聖書は文字や言葉で記されていますが、そ れらはキリストに至るためのものです。聖書を読んで、そこに起こる問いをまずキリ ストに向け、答えを彼から期待することが大事です。それに対して主は必ず答えて下 さいます。
2 キリストを知る
私はここでキリストを知るということを申し上げたい。律法学者に対する主の答 えは一口に言えば「神に献げ、人を愛す」です。「第一の碇は、これである。『イス ラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽く し、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」29〜30 節)の出典は申命記6章4〜5節です。また「第二の徒は、これである。『隣人を自 分のように愛しなさい』」(31節)はレビ記19章18節からであり、「この二つ にまさる碇はほかにない」と主は率直に答えましたp特にこの前者は、ユダヤ人たち が経札にして身につけて覚えとし、また彼らの会堂では繰り返し語られる聖句でし た。またこの両者は戒めの中の戒め、「十戒」の要約でもあります。従って主イエス の答えには、当時の人々にとって特に目新しいものはありません。そんなことならよ く知っているという反応が起ってもおかしくないとも思われます。しかしこの律法学 者は、そのようには応じませんでした。「この二つにまさる碇はほかにない」という 主の断言に並々ならないものを感じ取ったのではないでしょうか。律法学者の問いが とっさの思いっきでなかったと同じように、いやそれ以上にこの主イエスの答えに は、主イエスが日頃真剣に聖書を読み、取り組み、それに従って一貫して歩んでいる ことがうかがわれました。これに従うのが主のご生涯でした。主イエスこそ、最もよ い聖書の読み手であり、その体現者です。「この二つにまさる碇はほかにない」と言 われる方が、今エルサレムに登場し、三日後には十字架につけられ、死なれるので す。「神に献げ、人を愛す」とは十字架への道以外のものではありません。この二つ はキリストにおいて初めて実現されるものです。それ以外到底これを実現できませ ん。なぜならある信仰問答書も言っているとおり、わたしたちは生まれつき、神と人 とを憎む傾向があるからです。そのようなわたしたちのために、キリストはご自分を 「神に献げ、人を愛す」として十字架への道を歩んでくださいました。従ってキリス トを知ることこそ、この主題が目ざしているものです。主の十字架に至る歩みの一場 面一場面を心に刻みましょう。
3 キリストを証する
そのキリストを証することが、また今度は私たちが「神に献げ、人を愛す」とい うことになるのではないでしょうか。その場合、この律法学者がしていることをまず 強調しなければなりません。彼は先生、おっしゃるとおりです。…おっしゃったの は、本当です」(32節)と繰り返し、主イエスの語ることを肯定しました。キリス トに対する、そのとおりだということ、私たちが「アーメン」ニいうこと、これが私 たちの証しの第一歩です。そこで、私たちよりも、キリストご自身が私たちを通し て、ご自分を表現して下さるのではないでしょうか。
さらに反省してみると、どうも 私たちは、内向きで、このキリストを証し、表現できることの素晴らしさをどこか忘 れているのではないでしょうか。それは何か他の真理や、まして自分を表現すること よりも大きいことだと思うべきでしょう。教会の誕生を記した使徒言行録のペンテコ ステ記事は、使徒たちが聖霊に満たされて、「キリストの証人」として立ち上がった ことを述べています。彼らは自分たちをキリストの証人だと.みなしていました。そ こに説教という言葉によるキリストの証し、聖餐による交わりという表現、また神賛 美や祈りによる表現が始まりました。私たちの日本の歴史には約四百年間のキリシタ ン弾圧の歴史があり、これは世界に例のない徹底した迫害でした。その影響がキリス ト表現を内向きにしたり、大胆さに欠けるものにするのかもしれません。しかしこれ らを乗り越えて、キリストを証するものでありたいと願います。