説教 自分の命を献げる 

マルコによる福音書10章32〜45節   牧師 橋爪 忠夫  

主イエスが言われた「人の子〔ご自分のこと〕は…多くの人の身代金として自分 の命を献げるために来たのである」(45節)の一句に私たちの目を注ぎましょう。と いうのは、この地上で起きた事件で、最大の事件、そして最も謎に満ちたものは主の 十字架の死です。神の御子が、死刑にされる、これは考えただけでも恐ろしく、不可 思議なことです。この謎を解いてくれるのが、十字架につかれた主脚自身の口から明 かされたこの言葉だからです。主はその死を、「多くの人の身代金〔あがない〕とし て自分の命を献げるため」だと言われました。これはキリスト・イエスを知る上で見 逃すことのできない大切な言葉です。多くの学者がマルコによる福音書の中でも重要 な一句と指摘をしています。

 ところでここで言う「多くの人」とはいったい誰のことでしょうか。ヘブライ語 では多くの人とはすべての人と同じ意味です。するとこれは当時のユダヤ人のすべ て、あるいは過去、現在の全人類のことであり、その中にこの私も含まれているとい うことになるでしょう。しかしそれでは少し漠然としています。私は具体的にこの一 ケ月程前に起こったアメリカでの同時多発テロ事件に遭った犠牲者のことを考えさせ られます。またその遺族や同僚を思い浮かべます。五千とも六千とも言われる犠牲者 とそれを囲む人々の言い知れぬ悲しみを思います。最近の報道の要目はすでにアフガ ニスタンに移り、本当の問題の深層は取り残されたままになっているような気がしま す。しかし重大なのはこの事件に巻き込まれた人々の死は、いったい何であったかと いうことです。巻き添えで、たまたまそこに居合わせた人々の死を、古くから非業の 死と言いました。こういう.悲惨な死は多くの近親者・同僚を苦しめます。敢えて言 えば、浮かばれぬ人々の霊の問題です。

 大量の非業の死を遂げた人々の、その死に何の意味があるかを問うていた時に、 私は短歌の研究者・岡野弘彦の言葉を思い出しました。それは、第二次世界大戦の以 前と以後では短歌の世界は一変した。というのは大戦により非業の死を遂げた幾百万 の人々の浮かばれぬ霊が問題となり、彼らの荒ぶる霊をどうしたら鎮めることができ るかという問題を、人々の魂の底にあるものを歌う短歌は、どうしてもテーマにせざ るを得ないからだと述べていました。何のために彼らは死んで行ったのか、これを解 決しなければ、人は安易に復讐に燃えることになるでしょう。その時に何よりも、多 くの人のために自分の命を献げたキリストの十字架が顧みられなくなります。岡野氏 は、その例として歌人・釈超空(民俗学者・折口信夫の別名)をあげ、こう述べてい ます。「戦後の超空が最も心を苦しめて追求したのは、戦による巨万の死者達の魂の 鎮めをどうするかということにあった。戦火に逢って不遇の死をとげた者の霊を、日 本の民俗信仰の上では未完成霊として、その鎮めのためにそれぞれの時代の生き残っ た者は苦しんできたのだと考察していた、民俗学者、国学者折口信夫の最大の課題 は、その一点にあった」と。


 いったいこのような人々の死に何の意味があるかとは厳粛な問いです。このよう な一見して無意味な死に、意味をこじつけることはできません。しかし無駄死という 呪いからどうしたら解放されるのでしょうか。本来死とは人の命を断ち切り、その意 味をあらゆる面から無にするものです。その酷さは、自然死や大往生といわれるもの よりもこのような不条理の死に方に一層よくあらわれています。すべてを無意味なも のとしてしまう死の猛威は恐るべきものです。

 そのような時にこそ、「多くの人のあがないとして自分の命を献げるため」に十 字架にかけられたキリストの死が思い出されねばなりません。彼こそ、この死のすべ てを無意味にする猛威と闘い、そこで新しい意味を吹き込んだからです。一般に意味 とはあることへの自分との係わりや、さらに何らかの自分にとっての利益のことを言 います。勿論そのような意では、キリストの死も、主ご自身にとって何の見返りもあ りません。彼は十字架で死ぬことによって、ご自分には何の利益を得ません。しか し、彼は、その意味というものを向きを百八十度変えました。自分のためではなく、 多くの人のため、また神のためにということです。彼の十字架の死は、多くの人を神 につなぎ、人と人との和らぎとなりました。神と人とが対立し、人と人とが相争うと いう罪によって起こされた神と人との関係の破れ、人と人との関係の破れが、彼の死 で全く変わりました。最早、人は自分のためや、自分の利益ということにだけに物ご との意味を見出すのではなく、たとえ自分のためではなくても、神と人のためにも意 味を見出せるようにして下さったのです。それは無から有が生まれるほどの大革命で した。

 先頃引用した釈超空について岡野氏は、彼の晩年のキリストヘの傾倒ぶりを語 り、次フような短歌を紹介しています。  基督の 真はだかにして血の肌 見つつわらへり。  雪の中より  意味深長ですが、寒々とした魂に、十字架の死の和らぎが与えられることの嬉し さを詠んだものでしょう。

キリストの死は、たまたま遭遇した不遇の死というものではありません。彼は意 図してこの死を選びとりました。「自分の命を献げ」たのです。不慮ではなく、いわ ば憂慮の死です。もし非業の死を遂げた多くの人々の死が、このキリストが、彼らの ためにも自分を献げてくださった、だから彼らの死も決してむだではなく何らかの意 味で、多くの人を神につなげ、人と人との結び合わせるものだと理解できるならば、 自ら怒りや復讐は消え、むしろ、そのような不幸の死を生まないための工夫に力が回 されるのではないでしょうか。

 そして、私たちはこういう世の中に取り残された、人 間の深層にある問題をキリストを証しすることによって担う人々が生まれることを願 わなければなりません。自らの命を献げてキリストを証しする伝道者が必要です。も しそういう人々、つまり献身者がいなければ、世の深層や人々の魂はいやされませ ん。そのためにも祈りましょう。