説教 これはわが体である
コリントの信徒への手紙一 11章23〜25節
牧師 橋爪 忠夫
新年の標語は、聖餐の時に告げられる「これはわが体である」という御言葉です。この標語に、あるいはこういう印象をもつ方もいるかもしれません。標語としては少々意外だと。
ここに二、三年の標語を振り返ると次のようなものでした。去年は「神に献げ、人を愛す」、二〇〇〇年は「主に望みをおく人は新たな力を得る」、そしてその前年は「霊と真年間標語理をもって礼拝せよ」で、いずれも私たちに対して、あることを促し、勧めるものでした。しかし今年の標語は直接には私たちに向けられたものではありません。この言葉は直接には主イエスが今、裂こうとしているパンに向けられたものです。そのパンに向かって、これはわが体だとおっしゃっている。
パンがキリストの体になること、体であること、また、これに等しいということで、これはあくまでキリストとパンとの関係です。そこには私たちの入り込む余地はありません。もちろんこれは私たちのためのものですが、直接には全く不思議ですが、パンとキリストの体が同じだということです。その関係、またこの表現は絶対的なものであって、私たちはこれをそのまま受け入れるか、あるいは斥けるかのいずれかしかありません。不思議にも神の子であり、神である主イエスが御自身を一塊のパンに等しいと見なしておられるのです。
それではこれを私たちはどのように理解したらよいでしょうか。単純でありながら謎に満ちた言葉だと言わざるをえません。ヨハネ福音書の6章は主がご自分を「命のパン」と言われ、今年の標語を解き明かす重要なテキストですが、その終りの方に「弟子たちの多くはこれを聞いて、『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか』」(60節)と当惑し、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と報じています。
この言葉は合理的な理解にはつまづきです。ではどういうことなのでしょうか。結論的にこういうことではないでしょうか。「これはわが体であることは私たちの救い主であり、神であるお方が、ご自分が確かにおられ、働いていることを目に見えるパンという物で表現しているということです。主はご自分の存在をただ言葉で表すだけではありません。たとえ言葉を発しない場合でも、パンがそこにあるようにごく素朴にそこにおられるのだということです。
現代は情報化社会だと言われ、多くの言葉が飛び交っています。その言葉の中でも、コンピューターを媒介とする情報は、数字や記号を仲立ちとしなければ成り立ちません。数字や記号は言語の中でも最も抽象的なものです。シュペングラーというドイツの歴史哲学者の「西欧の没落」という本を私は読んだことがありました。それは第一次世界大戦をひき起こした西欧の文明に、没落の運命を突きつける当時の一世を風摩した本です。この中で、私は数というものについて彼のいうこういう件に興味を覚えました。数とはマギ(魔術師)のものであって、本来神々しか使うことができないものであったというものです。旧約聖書にも、神さまがイスラエルに、たとえば戦争のときに味方や敵の数を数えることを禁じている箇所がありました。数で勝負を先取りすることは不信仰であると。そう考えると主イエスがご自分の存在をパンという物で表現していることはまことに素朴です。それは高度な言葉や、抽象的な数での表現の対極にあるものです。
正月のテレビの「今年に挑戦」というインタヴューの番組にウィーン・フィルハーモニーの指揮者となる小沢征爾氏が登場したのを見ました。西洋音楽の殿堂であるウィーンで東洋人が指揮棒を振るというのは大変なことです。氏は、意外に飾り気なく、音楽に対するひたむきな姿勢を語り好感をもちました。彼の挑戦とは、東洋人である自分がどこまで西洋音楽を理解できるかということ、そして音楽とは何かということに尽きるそうです。その中で、音、つまり響きでの表現は、言葉以前のものだと言っていました。この「言葉以前」というのが印象的でした。確かに言葉以前のものが大事です。たとえば赤ちゃんはしばらくは言葉を解することはできません。音の響き、目に見えるもの、感触、味でまず物事に触れるのではないでしょうか。そしてそれらの経験を積んで始めて言葉がわかるようになります。言葉以前のものがなければ言葉で理解することはできません。主イエスはご自分がおられること、生きて働いておられることを素朴に、パンに託し、「これはわが体である」、私に等しいとおっしゃっているのは、ご自分の実在が確かであること、しかもヨハネ福音書ではしばしば神であることの同義として用いられる「私はある」ということを最も素朴な目に見えるパンで表現しているのです。それはまた私たちにとって主が共におられることをどんなに確かにされることでしょうか。
このご自分をパンという食物、目に見える物によってまで表現する主イエスとはどういう方なのでしょうか。それをご自分の体であるとまで言う主イエスはどういう方なのでしょうか。この言葉を伝えるパウロは「わたし自身、主から受けたもの」(23節)だと、主から直接聞いたことを明言しています。パウロは生前のイエスに会うことはありませんでした。ダマスコ途上で復活の主に直面したのが最初でした(使徒言行録9章)。「これはわが体である」とご自分をパンとして差し出しているのは復活された主イエスです。すでに私たちの罪を背負い、十字架につかれ、死を経験し、その死を滅ぼして復活された主こそ、その方です。
ルカ福音書の最後(24章36節以下)に復活された主が弟子たちに現われた様子が記されています。弟子たちは現われた主を「亡霊」だと恐れおののきました。それに対して「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」(39節)とご自身を示され、まだ容易に信じられない弟子たちの前で魚を食べられた(42節)とあります。このように復活された主は、ご自分を目に見える形で表したくてたまらないのです。ただ、パンだけでなくパンをとる食事という形でご自分を表し、私たちにそれをとらせようと熱望しておられるのです。
「キリストの体」という標語は教会が古くから唱えて来た、最も大切な標語です。