説教 見せかけと真実
マルコによる福音書12章38〜44節
牧師 橋爪 忠夫
主イエスのこの地上での日々が、もう残すところわずかになったある日、主が目を注いだ二つの光景が、ここにあります。それはエルサレムの神殿では、 特にいつもと変わったものではありませんでした。その一つは律法学者たちの姿です。他は賽銭箱に小銭を投げ入れた貧しいやもめの有様でした。しかし主イエスの目にこれらが写ると、それまでとは違う角度から光が当てられたよう に、それぞれが浮かび上がって来るようです。何か互いに引き立て合っているように写るのです。一方の律法(聖書)学者たちは、「長い衣をまとって歩き回り、挨拶されること、上席や上座を望み、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(38〜40節)と言われています。他方は貧しいやもめで す。彼女の、大勢の金持ちの中に混じって、まるで隠れるようにレプトン銅貨 2枚を賽銭箱に入れる一見みじめな姿は、主イエスにとって律法学者とは全く 対照的に写りました。それは彼らのわざとらしい見せかけの姿とは対照的に「こ の貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から自分 の持っている物をすべて、生活費全部入れたからだ」(43〜44節)とこれ以 上の言葉がないほどの表現となっています。主イエスの眼差しは一方の見せか けと他方のすべてをささげる真実とをとらえて離しません。多くの人々の目に 見逃されていることが、主イエスの目の前には、こんなにも生き生きとコント ラストした光景として描き出されることに私たちは驚きます。これはさながら 一幅の絵のようです。しかもそれは17世紀オランダで活躍した画家レンブラ ントを思わせるような、強い光と影の対照をもつ絵画を見るようです。レンブ ラントは最愛の妻を亡くし、晩年には彼を支えた息子を亡くしました。その絵 は人生の悲しみを増せば増すほど、色彩は抑えられ、ただ光と影で描くように なったと言われています。彼の傑作の一つは主イエスの復活を表わした「エマ オの食卓」(ルカ福音書24章28〜35節)です。それは復活した主イエスと それに気づいた二人の弟子、そして召使いが食卓を囲んでいる平凡な光景です が、その光と影のコントラストは実に鮮やかです。主イエスも十字架の死の苦 しみと悲しみが迫るにつれて一層鋭く人々の姿を見分けておられたのではない でしょうか。
この律法学者とやもめの姿は、ただ絵を見るように光と影のコントラストが あるというだけではありません。もっと劇的なものがあります。もっと立体的で、奥行きがあります。というのは、この光と影の対照は普通の人々が見るものとは逆だからです。写真で言えばネガとポジの関係にたとえられるでしょう。 普通の目から見た光が影に、またその逆に影が光に転じているからです。当時の多くの人々にとって律法学者たちとは憧れの的であり、敬意の眼差しで見られた輝いた人々でした。身につけた長い衣、敬意を表わす彼らへの挨拶、備え られた上座、上席、そしてやもめをも動かすほどの知恵、長い壮重な祈りなど を見せかけだと見抜いたのは主イエスだけでした。しかしこの当時の人々は彼 らを民族の誇りと見ていました。それもそのはず、亡国のイスラエルを数百年 の間支えて来たのは、律法すなわち旧約聖書を死守した彼らでした。もし彼ら がイスラエルの歴史に登場しなければ、その歴史は、影のように消えていった でしょう。彼らが今日あるのは律法学者たちに負っていました。しかしその誇 り高い伝統をもった彼らのおごりを主は見抜かれました。他方、貧しいやもめ のささげたレプトン銅貨二枚とは、今日に換算すれば50円硬貨2枚ほどのも のです。これが他の多くの紙幣や硬貨の中で、光を放つということはありえま せん。むしろ高額の貨幣を目立たせる影の脇役にすぎません。しかし主イエス はこの献げ物に全舞台の照明を集めて投げかけました。「この貧しいやもめは、 だれよりもたくさん入れた。乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」と絶賛しました。これらは人の目による対照とは違う、逆転 し反転したコントラストです。もし暗転という言葉にある劇的性格を思い出せば、それ以上の好転、あるいは光転と表すべきものです。
このような逆転したコントラストが主イエスの目に鮮やかなのはどうしてかをよく考えてみなければなりません。「幸いなるかな、悲しめる人よ」(マタイ 福音書5章4節)のような逆転がどこから出て来るかを深く考えなければなり ません。
その理由の一つは主イエスの眼差しは、人の眼差しとは違う神の眼差しであること。それは決して見せかけは通じないほど鋭く、深いものだということで しょう。私たちは見せかけの通用しない神という全知全能の方の眼差しが注がれていることに気づかなければなりません。最後に注がれるのはその眼差しであって、それが人を天国か地獄に分けるのです。十字架から差して来る光は、「両刃の剣より鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど鋭く、心の思いや考えを見分ける」(ヘブライ4章12節)からです。そこに逆転のコントラストを 生む原因があります。しかし本当はこれが逆転なのではなくて、私たちこそこの世に流されて見せかけを真実に、真実を見せかけに見過ごしていることの方が多いのです。それほど私たちの目は狂っているのだということをよく肝に銘 じておく必要があります。自分の気分や気持に正直なのが誠実で真実なのだというようなことを夢々思わないことです。自分の心を偽っても神には真実で正直な場合が多くあります。もしこの貧しいやもめが、自分の今日明日の糧のことを心配する自分の心に正直だったら、このように神の前に光を放つことは 決してありません。
主イエスの前に2レプトンを投げ入れたこのやもめは光を放つ人でした。そ れは神さまのために生活費全部をささげたからです。この姿は私たちの目の前にくり広げられた単なる見せ物ではありません。それはこの地上の生活すべて を神にささげ、十字架に向われる主イエスを動かすものでした。主イエスもこのやもめの背後に立ち、その風景の登場人物にその立場を代えるのです。私たちも見物ではなく、持ち物すべてをささげなければなりません。