説教
主から受けたもの
コリントの信徒への手紙一 11章23〜25節
牧師 橋 爪 忠 夫
私たちの教会の今年の年間標語は「これはわが体である」(24節)です。この標語を掲げたねらいは、礼拝を成り立たせている中核にある「聖餐」を取りあげて、共に深めようということです。すでに1月13日の「これはわが体である」という説教で、私はその見取図となるようなことをお話ししました。この説教に沿って、去る2月の婦人会である方が発題をし、重要な指摘をされました。まずその指摘のあったところを紹介しましょう。
「この言葉を伝えるパウロは『わたし自身、主から受けたもの』(23節)だと、主から直接聞いたことを明言しています。パウロは生前のイエスに会うことはありませんでした。ダマスコ途上で復活の主に直面したのが最初でした。『これはわが体である』とご自分をパンとして差し出しているのは復活された主イエスです。」
これへの問いは、主の晩餐についてパウロが文字どおり主から直接聞いたのか、むしろ原始教会から伝え聞いたのではないかということでした。確かにパウロがあの十二弟子に混ざって主の最後の晩餐に連なり、主から直接「これはわが体である」の句を聞いたとは想像しがたいことです。しかしそれならばどうして彼は力を込めて「わたし自身、主から受けたもの」と語り、以下の主イエスの十字架に引き渡される夜の出来事を、あたかもそこに居合わせているかのように語るのでしょうか。どうしても「わたし自身、主から受けたもの」という句と「引き渡される夜」以下とは大きな時の隔たりがあるように思え、ひとつになりがたいと感じられます。実は名だたる新約の研究者の問でも、これに関する見解は真二つに分かれていて、猛烈な議論をしています。片やパウロは主イエスから直接このことを今現在聞いているとし、他方はあくまでこれは過去の言葉を彼が言い伝えで聞いているのだということです。はたして彼の言う「主から受けたもの」とは、彼自身が直接主から受けたのか、それとも教会の言い伝えを介してなのか、どちらかかということです。しかし私は、その一方に限定するのは難しいのではないかと思うのです。それは主の定めた聖餐そのものがそういうものでないということに起因するからです。むしろ両方の見方をすることが大切なのではないでしょうか。言い方を換えれば、主の晩餐とか聖餐には私たちの基本的な時間の枠組みである過去、現在、未来を取り払ってしまうものがあるからです。
ここで少し皆さんの認識を新たにすることを申し上げたい。私たちは普通、ある出来事が起こった場合、それがいつであるかを問題にします。過去なのか、現在なのか、さらにはどの程度の過去なのかと。私たちの日本語ではその区別は比較的淡白ですが、ヨーロッパの言語はそうではありません。文法的には時制と呼ばれ、過去、現在、未来を厳密に分け、さらにそれぞれを細かく分けます。現在形、現在完了形、現在進行形などと。しかしユダヤ人の使うヘブライ語は東洋の言葉であり、そのような厳密な時制の区分はありません。あるのは動作の完了と未完了の区別だけです。すでに終ってしまったのか、今でも続いているかです。これはいかにも原始的で未発達の言語のように思われますが、はたしてそうでしょうか。もし物事や出来事を伝えるためならば、厳密な時の区分はふさわしいでしょうが、過去、現在、未来にわたって生きるもの、特に人格を相手にするとき、詳しい時の区分はかえって足伽とならないでしょうか。
パウロが「主から受けたもの」というときの主とは、何よりも死んで復活された主イエスです。彼はこの主と出会い、共におり、またこの主から語りかけられています。彼はその経験を「キリストが聖書に書いてあるとおり…三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。…次いでヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」(同書15章3〜8節)と言い表しています。パウロに出会い、彼に聖餐の言葉を語っている主とはこのように時と場所を超えて多くの人々に現れた同一の復活の主です。この方をある時、ある場所に限定してしまうことは、かえってふさわしいことではありません。聖餐の中心には「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ書13章8節)がおられ、その方がご自身の命に与らせようと招いておられるのです。
それではこのお方が招かれる「主の食卓」、すなわち聖餐とはどういうものなのでしょうか。その元の形が出エジプト記にある過ぎ越しの食事にあることは明らかです。この食事にあずかるユダヤ人の感覚について私はかつてこういうように聞きました。時期的に言えば、これは今から3300年も前の出来事を記念する食事です。しかしユダヤ人にとって、これは速い過去を遥かかなたの現在から追憶するような食事ではありません。「それを食べるときは、腰帯を縮め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」(出エジプト12章11節)とあるように、時を超えてその場に居合わせているようにその食事に与ります。そして自らモーセに従い葦の海を歩くように出エジプトの旅路を体験します。もし私たらが復活の主による食卓に与るならば、パウロのように「引き渡される夜」に私たち自身もそこに居合わせることができるのです。
またこういう他の一面もあります。ルカ福音書の9章に主の山上での変貌の記事があります。白く輝く衣の主イエスと共に旧約のモーセとエリヤが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(31節)と。この「最期」の元の言葉はエクソドス、つまり出エジプトや脱出を意味するものです。主イエスがそこにおられると、遥かかなたの出エジプトの救い、過ぎ越しの救いが今、現在に、さらに大きな業となって再現されます。過去はよりはっきりした、より大きな恵みとして形をとり、再現される、それが主の死と復活によって成就される、これを「これはわが体である」というパンに与って、私たちは目の当たりにします。しかもそれは来るべき神の国を現在に映し出す食卓です。
主から受けたものに共に繰り返し与りましょう。