説教  食卓に招く復活の主
ヨハネによる福音書21章1-14節
牧師 橋爪忠夫

 私たちの使う諺にも、二度あることは三度あるとか、三度目の正直という言い方があって、三度というのは物事が偶然に左右されるような不確かなものでないことを表します。 今日は主イエスの復活を祝うイースターの礼拝です。そのことを記した今日の聖書のテキストは、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(14節) という象徴的な言葉で終っています。普通に考えれば、死んだ人、しかもあんなにもあからさまに公衆の面前で十字架の刑で殺された人が、生き返るということは全くもって信じがたいことです。 しかしそれを覆して、復活し、三度も現れた、この三度目というのはもはや動かしがたい事実であるということです。さらに三というのは完全数てあって、ただ三度だけでなく、いつもある、 起こるということをも意味しています。


 このヨハネ福音書によって復活の主が三度現れた場面を振り返ってみましょう。 一度目は、主がマグダラのマリアに、葬られた墓のそばで現れました(20章11節以下)。マリアはそれが主であることがわからず、墓を管理する園丁だと見誤り「あなたがあの方を運び去ったのでしたら 、どこに置いたのか教えてくださいこと訴えました。それに対する「マリア」という聞き覚えのある声にハッとして、それが主イエスであることがわかりました。これは墓のそばという、非日常的な、しかし 人間が最後に赴く墓場で起こった復活の主との出会いです。二度目は弟子たちが集まって身を隠した家、よりふさわしくは集会場です(20章19節以下)。ここには弟子のひとり、ディディモのトモスを欠いたときと、その八日後に再び現れて、復活したご自身の体を見せ、十字架の刑の傷跡を示して、トマスの疑いを雲散霧消したことが記されています。この復活の主が現れた場は、私たちが時を定めて集まる場所、会堂とか礼拝堂と言い換えてもよいと思います。

そして三度目とはどういうところだったでしょうか。それはティベリアスの町に接する湖畔でした。通称ガリラヤ湖と呼ぶ湖を臨むところです。それはペトロはじめ数人の弟子たちにとってよく知り尽くした懐かしい場所でした。彼らはかって漁師でした。また主イエスのエルサレムに至るまでの活動の多くはガリラヤ湖の周辺でした。そういう意味で、ペトロたちにとってここは生活の臭いがしみついた、日常的な場所です。ここは、聖書の研究者たちが使う言葉で言えば、ペトロたち弟子の「生活の座」(聖書の語句の舞台となる場)でした。彼らは前の二度目の主との再会を終え、ここに漁をするために向かい、湖上で舟の人(3節)になったのです。けれども、夜通しの漁にもかかわらず一匹の収穫もありませんでした。



 そういう実に日常的な場所、この世の人間として実に当たり前に、何の飾りもなくごく普通に人が過ごしている場所とはどういうところなのでしょうか。「しかし、その夜は何もとれなかった」 (3節)という、期待したものさえ手に入らない、それに伴う疲労や落胆が如実にあらわになるところです。彼らにとって、この夜明けは何と恨めしいものだったでしょうか。しかしこの場面で印象 的なことは、その一部始終を復活の主が岸辺に立って見守っていたことです。そして、「子たちよ、何か食べる物〔これは獲物と解せる〕があるか」(5節)と声をかけられる。しかし、弟子たちに はそれが誰であるかわからないのです。ドイツのハンス・リルエという説教者は、この風景こそ、私たちとキリストの間の日常の風景であり、キリストこそ私たちの日常生活の岸辺に立って、私たち を見守っておられると印象的に語っています。しかもその際に主が呼びかけた「子たちよ」という言い方は、いかにも親しみを込めたものです。このような呼び方に表される眼差しをもって、主は私 たちを見つめられておられるに違いありません。しかしその方が誰であるかも、そういう眼差しのもとにあることも^私たちは多くの場合、忘れているのです。そこで復活の主はさらにはっきりとした 指示をされます。網を舟の右側に打ってみると。そして結果は信じられないほどの大漁でした。そこでペトロたちは、それが復活の主であることに気づき、主がおいでになる岸へと急いたのです。



 岸辺に上がって来た彼らを、主イエスはどういうように迎えられたのでしょうか。それは住みなれた生活の、しかも中心の舞台といってよい所でした。主が招かれたのは「さあ、来て、朝の食事を しなさい」(12節)という食卓でした。そして、復活の主は「パンを取って弟子たちに与えられ…魚も同じようにされた」(13節)のです。弟子たちは最早だれも、あなたはどなたかと尋ねる要 を感じず、等しく主であることを知ったのです。復活の主は、人間の赴く究極の場や、また礼拝のために集まる場をご自分の現れる場所とするだけでなく、私たちのごく普通の生活の舞台にもおいで になります。そこでも、私たちの疲れや落胆、困惑に応えようとされ、その中心舞台で養い手となって下さるのです。
 ある雑誌にあった、食卓についての文章を紹介しましょう。「食卓は、家族が一日に何度となく集まるところ。朝から晩まで、食事に関するものをはじめ、新聞や郵便物、暮らしにまつわるさまざ まな『もの』が運ばれ、片づけられ、また広げられてと、生活の流れの中心に位置しているかのような役割を担っています」と。ある建築家は、住宅の設計は、まず食卓から始めるということを聞い たことがあります。そこにも復活の主は現れて下さるのです。いやその場を深い意味で備えて下さるのはこの方なのです。
 我が家の食卓の壁にこの三十年間掲げられたプレートの文字をご紹介しましょう。
 「キリストはこの家のかしら、
  すべての食事の目に見えぬ客人、
  あらゆる会話の声を出さぬ聞き手」(原文は英語)
 皆さんもこの第三の場でも復活の主がおられるということを覚えて歩む新しい年度であっていただきたいと思います。