説教  「しかし、御心のままに」
マルコによる福音書14章32-42節
牧師 橋爪忠夫 

 キリスト者の祈りを表す言葉のひとつに、「祈りはキリスト者の呼吸である」という言い方があります。呼吸とか、息を、私たちはひとときも絶やすことはできません。もし呼吸が止まるということがあるとすれば、それは即、死を意味します。生けるものにとって、新鮮な空気を吸い、体内から息を吐くことは必須であるように、キリスト者にとって祈りはこの呼吸に等しいものです。そして、私たちが福音書を読むと、それを実践していたのが主イエスであることがわかります。主イエスは実によく祈られました。時に応じ、また合間合間に祈られたことが知られています。

  英語に the man of prayer (ザ・マン・オブ・プレイア)という言葉があります。これは普通に訳せば「祈りの人」です。しかし決して月並なものではありません。聖書以来の代々の教会において、人に贈られる最も敬意を込めた形容が、この言葉です。代々の教会は祈りをその本領とする人をどのような人よりも重んじて来ました。それは、主イエス・キリストに似た人であるからです。  主イエスはご生涯のうちでも最も厳しい、あの十字架にかけられる前夜、祈られました。それは言葉の真の意味で必死な祈りでした。ルカによる福音書は「祈りの人」としてイエスを強調していますが、同じこの場面の祈りの様子を、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(22章44節)と記しています。主がその将来を深く案じられたエルサレムを一望するオリーブ山の一角、ゲッセマネの園で主は祈られました。

  主はこの時はペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴って祈りの場所につき、その心の内を口にのぼらせ、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(33節)と語り出しました。そしてこう祈りました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と。「杯」とは古来、人に訪れる避けることのできない運命を表すもので、主の場合は十字架による死のことです。これをできることなら取りのけてください、しかし、ご自分の願うことばかりではなく、御心のままにと祈りました。これは祈りというもののエッセンスではないかと思います。

  この祈りには明らかに葛藤、矛盾があります。しかしという逆接があるからです。主はご自分の願いを父なる神に祈りました。しかしそれはただ自分の願いを父に頼み、それを必死に求め、自分の意志を思い通りに押し通すことではなく、神の御心に適うことが実現されるように祈りました。はたして私たちの祈りに、こういう葛藤や御心ゆえのしかしがあるでしょうか。これは主が父の御心を優先させ、それこそ自分にとって本当に願わしいことだと、むしろ御自分の願いを父の御心に従わせ、一致させているのです。ですから、この祈りは単に矛盾や葛藤があるというだけでなく、むしろ、祈ることによって取り戻される事の優先、何が物事の順序の中で最も先立つのかを示しています。祈りにおける最大の課題は何でしょうか。また天の父は何故に、御子イエスを通して私たちに祈ることを教えられるのでしょうか。それはひと言で言えば、何が物事の中で先立つのか、順序や秩序の中にある本来の優先するものを取り戻させることではないでしょうか。人の堕落とか罪とは、何が事に当たって先立つのかを忘れてしまい、迷い出し、滅びに落ち込むことです。そこから本来の姿を取り戻すことこそ祈りです。この優先すべきもの、それこそ父の御心です。「しかし、御心のままに」という主の祈りは、祈りの中の祈りと言うべきものです。

  主イエスの口からどうしてこのような祈りが出て来たのか、父なる神の御ひとり子であるから当然だと受け取るかもしれません。しかし、もしそれだけならば、このように祈ることは私たちには不可能になります。私たちは、祈りと言えば、山ほどの自分の願いがあり、それを抑えて、御心を優先することなど、なかなかできません。その私たちがどうしたら、この主のように祈ることができるでしょうか。

  聖書の物語は、多くの場合前後の続きも大切です。このゲッセマネの園へ向かう前に、何があったでしょうか。主は弟子たちと共に、エルサレムで、一つのテーブルを囲み、晩餐(聖餐の原型)を守りました。「取りなさい。これはわたしの体である」と語り、杯について、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(14章22節以下)と宣言されました。この主の晩餐で分かたれたパンと杯こそ、父なる神の御心を凝縮し、主イエス・キリストの実現する救いの業の一切を物語るものです。これが先にあることによって、「しかし、御心のままに」と私たちも祈ることができるのではないでしょうか。使徒パウロの語るように、祈りは、「この霊〔聖霊〕によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶ」(ローマ8章15節)とあるように、聖霊を与えられ、導かれることによって始めて祈ることができます。この聖霊とは、旧約ではルーアッハと呼び、神の息と訳せます。それは創世記2章にあるように、主なる神が、土(アダマ)で人を形づくり、その鼻に命の息(ルーアッハ)を吹き入れて、「人はこうして生きる者となった」(6節)に表されています。祈りはこの目に見えない神の息、聖霊によって可能となります。それを吹き入れられて、キリスト者は祈りという呼吸ができます。それと同時に、目に見える聖餐に与かり、父なる神の御心を思い起こし、そのお心に従う祈りができるようになります。聖霊と聖餐によって、キリスト者の呼吸である祈りが生まれて来ます。

  このようなことを示されるにつけ、日々、また時々に応じて祈りをすることが大切です。それを実践することが何よりも大切です。ゲッセマネで「わたしが願うことが行われますように」と祈られた祈りの人イエスをいつも思い起こし、またそれに従った先輩たちの姿を思い起こし、祈りの人の群に私たちも加わって行きましょう。