マルコによる福音書14章41-50節
牧師 橋爪 忠夫
主イエスが祈りの場所として決めていたゲッセマネの園で、主を亡き者にしようとした時の権力者たちの差しがねによって捕らえられたという衝撃的な出来事がこの場面です。このような逮捕の場面は、ドラマや小説でも、また実際のこの世の事件でも、緊張をはらんだクライマックスになるのではないでしょうか。それが成とでるか否とでるかに人々は一様に胸を高鳴らせるでしょう。その理由は、人を捕らえるという一瞬は、それに向けて、ずっと以前から人の知恵を傾けた計算、あるいは謀りごとや戦略がたてられるからです。今日では、あらゆる場面を想定したシュミレーションなども当然行われます。そしてそれが一挙に現実化するのが逮捕という瞬間です。そのための作戦で大事なことは、昔から相手の抵抗をできるだけ少なくし、できるならば不意打ちを食わせることだそうです。それで逮捕は夜がよく選ばれました。主イエスの場合も、夜、しかも取り囲む仲間の少ない、祈りの場所でなされました。しかも主を捕らえるという、まさにあってはならない逮捕のドラマには、さらに罪深い謀略がありました。夜の闇の中でも、捕らえるべき人物を間違いなく特定できる協力者を、その仲間から得ることです。それは弟子の一人ユダでした。「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れていけ』と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけ捕らえた」(44?46節)。この策略はまんまと的中しました。周到な計略は、思い通りの結果を得ました。
もっとも多少の抵抗はありました。主イエスの味方である居合わせた中のある一人が、思い余って、「剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした」(47節)という一駒もありました。それは主に従う人々にとって、これが全く計算も予測もつかなかった不意打ちであることを裏書きしていることでしょう。この剣をふるったある一人とは主の最も近くにいたペトロであるとヨハネ福音書は伝えています。彼は全く不意をつかれ、その狼狽の果てに剣に物をいわせたのでしょう。この場面はこのように主を捕らえる側の見事な勝利の観があります。多くのこの場面を注解する人々の口から、「この世の子らは、光の子よりも賢くふるまう」(ルカ16章8節)の言葉が漏れて来ます。この世の、あるいは闇の知恵の謀り事も相当なものなのです。
しかし主の逮捕の場面は、それに終るものではありません。まさにそのようなこの世の悪賢い知恵が、その力を働かせている所、そこに主はおられるのです。弟子の一人が、信頼と敬愛を表す接吻を師を売る道具に変えたような人間の最も卑劣な一面が現れる場所に主は立っておられるのです。いやそれだけではありません。そこで不思議な、この場面を全く違う視点から受け入れていると思われる一句、「しかし、これは聖書の言葉の実現するためだ」(49節)との御言葉をもって主はこの場を免れようとしないのです。
「聖書の言葉の実現」がこの逮捕にあると主は言われました。それは敗者の負け惜しみの弁なのでしょうか。このようなこの世の見方からは、敗者の弁としか見えない言葉を把え、ある思想家は、だからキリスト教は敗北者の宗教だと吐き捨てています。しかしそうでしょうか。
この「聖書の言葉の実現のため」との一句は、もっと注意深く聞かれなければなりません。何か、このことを具体的に予示するその文字通りのことが旧約聖書に見付けられるという意味でもありません。そうではなく、ここで「聖書の言葉の実現」と言われているのは、端的に言えば聖書全体ということです。聖書の中の深みに一貫して流れるものの見方、それに即してその御言葉が実現するのだという意味です。換言すれば聖書を正典として読み、すべての拠り所、基準として読む。その中で生きて働く神が、このような場面にも働いていることを読み取るような読み方から出て来る言葉です。それは必ずしも今、自分を襲う不運や闇から救い出さないかもしれません。むしろ、闇や不幸をそのまま受け入れることを迫るかもしれません。主イエスも聖書全体から、この逮捕を受容していることは明らかです。そしてそれを「聖書の言葉の実現だ」と積極的に受け入れました。
この主イエスの聖書の読み方、そしてそれ故にこの事態を受け入れる読み方とはいったいどういう聖書の読み方なのでしょうか。それは私たちの自分の問題や悩みからただ単純に免れたいと思って読む読み方とは違うのではないでしょうか。このような主イエスの聖書の読み方こそ、最初の教会の人々の大きな関心事でした。なぜなら、このような読み方こそ、また主イエスがそれに相当するものが何もないのにもかかわらず、受け入れられたあの十字架の死への道程を明らかにするものだからです。
その後約五十日後に聖霊降臨(ペンテコステ)により生まれた最初の教会の産声ともいうべき、エルサレムでのペトロの説教には、そのような主イエスの聖書の読み方の秘密を明らかにする言葉が見出されます。
「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで、あなたがたに引き渡された」(使徒言行録2章22?23節)この神の「お定めになった計画」こそ、主イエスが「聖書の言葉の実現のため」と言われた聖書の読み方です。神は一見、無秩序、不義、暴虐がまかり通ると思える事柄にも、一貫した、お定めになった計画を持っておられる。それは人間の謀り事もくつがえすことのできないものです。主はこれにご自身を委ねておられるのです。しかもこのご計画は、その主を死の苦しみからやがて解き放ち、信じるものに赦しと、新しい命を約束するのです。