説教 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

マルコによる福音書15章33-41節

牧師 橋爪 忠夫


 新約の福音書には主イエスの語られた印象深い言葉のいくつかが、話されたままの原語で記されています。それは当時使われていたアラム語という言語です。このマルコ福音書にもたとえば、「エッファタ」(7章34節、「聞け」)「タリタ、クム」(5章41節、「少女よ、起きなさい」)があります。また重要なのは主イエスが父なる神に呼びかけた言葉、「アッバ」(14章36節、「父よ」)です。それは後の使徒パウロが、祈りの冒頭に、そのまま用いた愛用の語句でした。

  そのような中で、最も注目しなければならないのが、主イエスが十字架の上で息を引き取る際に叫ばれた、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(33節)です。その意味は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」となります。このような主イエスの発したナマの言葉がわざわざ残されているということは、敢えて言えば、主イエスの言葉の意味を伝えることを後回しにし、また犠牲にしても、あのゴルゴタの丘で十字架にかかり、こう叫んで息を引き取られた主イエスの生きた事実を伝えたかったということにあるのではないでしょうか。あるいは単に言葉を通して伝えられた意味を人が頭で理解し、納得するような手続では満足できず、主イエスの発せられたそのままの言葉が、ある種の力をもって人々に迫ってくる、人々はそのナマの言葉を通して主イエスの十字架の現実を目の当たりにすべきだと信じたからではないでしょうか。それは、歴史的なクライマックスの場面で発せられるものと似ているかもしれません。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」もただその言葉の意味が伝えられるというのではなく、まずこちらが十字架の場面に赴いて、その下でじかに聞き取らなければならない言葉として初代のキリスト者の胸に焼き付いていたからだと思います。

 

  それならばこう発せられた主の叫びは私たちをどういう現実の前に立たせるでしょうか。それは主イエス・キリストの死が何を表わしているかとも言い換えることができます。この叫びはひとことで言えばたいへん矛盾に満ちた不思議なものだとまず言わなければなりません。一方で「エロイ、エロイ」〔わが神、わが神〕という叫びは信頼に満ちた神への呼びかけです。たとえば私たちが神をわが神と呼ぶ、それはどういうときでしょうか。それは自分は見放されていない、顧みられ、見守られているという実感から出て来ます。このように神に呼びかけるとき、言葉では言い表わすことができない神との一体感、一つであることの喜びがあるときでしょう。主イエスもこう叫ぶときにはそのような実感が伴っていたはずです。その父と子の信頼、一体であることは揺らいていません。 

 しかし他方、それに続く言葉、「レマ、サバクタニ」〔なぜわたしをお見捨てになったのですか〕は前者とは大きく矛盾します。それは悲痛の極みの叫びです。確かに十字架の上の主からこういう言葉が出て来ることの方がむしろある意味で自然ではないでしょうか。というのは、主イエスが十字架上に至ったのは、確かに見捨てられるという経験の連続でした。彼の十二弟子のひとりユダは主を囲む最後の晩餐に列席した選ばれた弟子であったにもかかわらず、接吻をもって主イエスを裏切り、時の権力者に売り渡してしまいました。そして彼の逮捕、裁判、そして死刑が確定すると、弟子たちの一団は雪崩のごとく、主を見捨て、逃げ去ってしまいました。主は弟子たちとの信頼の関係を裏切られ、全く見捨てられて十字架の上で孤独でありました。しかし、十字架上の主が味わわれた見捨てられたという実感は、ただそのような人間に対するものだけではありません。それは唯一の信頼すべき父なる神からも見捨てられるということです。神からも捨てられた、それがこの十字架上の主から出た叫びです。全く人からも、神からも見捨てられる理由がない主が、どうして捨てられるのか、それは大きな謎であり、主イエスの口から声を大にして叫ばれるのは当然です。そしてその理由は容易に見付け出すことはできないように思えます。それはただ、主イエスが十字架で味わっている、見捨てられるということが何を表わしているかにだけ謎を解く鍵があるのではないでしょうか。

  信仰の先輩たちは、この捨てられたという叫びは、人間の誰もが最後に経験する死というものの真の姿を写し出すものと受け取りました。「自然死」という言葉がありますが、聖書では死というものは決して自然なものではありません。死とは、神からも人からも捨てられる不自然な、異常なものです。パウロの言うように「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6章23節)。つまり罪に当然の報いとして死があるのだ、罪の結果こそ死だということです。主イエスこそ、そのような罪の結果の本来あるべきでない死に、私たちに代ってご自身の身を置き、その真実を包み隠すことなく顕わにされました。罪とは神と人から見捨てられることに他なりません。そうであれば、主が叫ばれた「エロイ、エロイ」という子から父なる神に叫ばれた信頼の呼びかけと「レマ、サバクタニ」という見捨てられたという実感とは、どうしても結び付けることのできない無限に矛盾するものだと、言わなければなりません。

  しかし、この全く見捨てられた中で、しかも神を信頼に満ちて「わが神、わが神」と叫べるものにして下さったのがまさにこの主イエスの十字架の死です。ただ主イエス・キリストによってのみ、また「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びによってのみ、見捨てられた中にも、神に叫び、信頼を寄せる道が開かれるのです。主イエスがこう叫ばれて息を引き取られたとき、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)という象徴的な出来事を聖書は記しています。この垂れ幕とは神殿の至聖所と人々の入ることができる前庭とを隔てる幕のことです。それは神と人とを隔てる幕でした。その幕が、この叫びと主イエスの死によて取り去られました。人はこのキリストの仲立ちにより、捨てられてもなお、神につながる道を与えられたのです。このキリストの叫びによって神への道が開かれるのです。