説教 主を見た人々の言葉
マルコによる福音書16章9〜20節
牧師 橋爪 忠夫
約二年の間学んで来ましたマルコ福音書も、本日で終りのところに来ました。そこでこの箇所を見ますと、少し複雑な終り方をしています。「結び一」、「結び二」や〔〕が付されています。当然ながら、この福音書は本当はどこで終るのかと疑問をもつ方もおられるでしょう。けれども私は敢えて9〜20節をもって終りたいと考えました。どうしてそうするのかを説明する必要があるかもしれません。
実は聖書という書物が、私たちの手許に届けられるまでには長い経過があります。最初期には福音書の場合は、人々の口伝え、そしてある時点に書物になり、このマルコの場合は紀元60年頃で、そしてそれが次々に書き写され写本となって伝えられました。いずれの写本もほとんど内容の違いはないと言ってよいのですが、それでもわずかの相違があります。このマルコの場合、幾つかの権威ある写本は、16章8節で終り、9節以下はありません。しかしながら、そのことをことわりながら、いずれの聖書も9節以下を載せているのが普通です。それには次の二つの理由が考えられます。一つは、ここに伝えられた記事が確かに事実でありながら、最初はその重要さが気づかれなかったが、後になって気づかれたということ、もう一つはこの記事が単に過去のことではなく後の教会の現実を写し出すような内容を含んでいるので、どうしても書き記されなければならないと考えられたからです。この二つの理由から、敢えてここをマルコ福音書の結びとして読みたいと私は考えました。
それではこの終りのところで見落とすことができない重要な内容とはどういうものでしょうか。それは一口に言えば「イエスを見た人々の言葉」という説教題に集約されます。このテキストをたどると、荒筋はこういうことになります。16章の1〜8節には主イエスの葬られた墓が空になっており、そこを訪れた婦人たちに白い衣を着た若者(天使)が現われて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない。……さあ、行って、弟子たちに、〔これらのことを〕告げなさい」(6〜7節)と言われ、婦人たちは恐れのあまりそこを逃げ去ったというところで終っています。大変に唐突な終り方でその後に続くのが、9節以下です。まず第一に復活したイエスはマグダラのマリアに現われ、彼女はそのことをイエスと一緒にいた弟子たちに知らせましたが、「しかし彼らは、……マリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」(11節)とあります。そして次に、その後、イエスは別の姿で御自身を二人の弟子に現わされましたが、やはり「彼ら〔弟子たち〕は二人の言うことも信じなかった」(13節)とあります。
そしてその後、主は十一人の弟子が食事をしている席に現われ、「復活されたイエスを見た人々の言うことを信じない」(14節)彼らの不信仰とかたくなな心をとがめられました。そして、その席で『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』(15節)という使徒として世界に遣わす大号令をおかけになっているのです。このようにたどると、一つは主イエスが「イエスを見た人々の言葉」を聞いて信じなかった弟子たちを強い調子でとがめておられることに注意を促されます。そしてもう一つはそんなに強くとがめられた不甲斐ない弟子たちに、まだその舌も乾かぬうちに、全世界への福音伝道の大任を委ねていることに驚きます。主イエスよ、そんなことをして大丈夫なのかと思わず叫びたくなるようなところです。
まずこの前者ですが、主イエスは直接、弟子の一人々々に現われて、ご自分を示し、信じさせるのでなく、繰り返し、「主を見た人々の言葉」をもってご自分を信じ、受け入れるようにされていることが大切です。それはこの場面の弟子たちのことだけでなく、私たちが主を見た人々の言葉を聞いて、主を信じることにつながる、つまり私たちが聖書の言葉を読み聞くことがどういうことか、を示しているからです。私たちも直接に主を見、復活の主に直接触れることはできません。すべて聖書を通して、主を見た人々の言葉を受け入れて主を信じます。もしそれが出来ないのであれば、主を信じることも、受け入れることもできないでしょう。後の使徒パウロは自分の語る言葉のすべてが「わたしたちの主イエスを見たてはないか」(一コリント9章1節)という使徒としての経験にもとづくと語ります。このマルコ福音書も、あるいは新約聖書も、端的に言えば「主を見た人々の言葉」です。しかもそれは単に人間の目で、人間の感性で主イエスを見たというならば、そこには当然、人間の見誤りとか幻や錯覚の可能性があるかもしれません。主イエスが、ご自分を見た人々の言葉を弟子たちが信じなかったことをとがめられた最大の理由は、彼らの言葉、その証言が、主イエスご自身がご自分を見られたとおりの見方に従ったものだったからです。主イエスご自身がご自分をどのように見られたか、それはマルコ福音書中最も重要な「人の子〔イエス〕は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活する」(8章31節)ということです。この見方に裏付けられた主を見た人々の言葉こそ、偽りのない主を証しする言葉です。それを通して初めて、主を信じることができるのです。
しかし、後者のことですが、その言葉を本当に信じ、それを全世界に宣べ伝えるということは、一大飛躍に近いことではないでしょうか。不信仰でかたくなな弟子たちが、一挙に信じて、この福音(主を見た人々の言葉)を宣べ伝えるためにはもっと十分な用意が必要であると思われます。しかしこの場面では主イエスは一挙に飛躍し、この弟子たちを使徒として全世界に遣わし、その大任を委ねておられます。それはまさに驚きです。いったい弟子たちのどこにそのような力があるのでしょうか。そこで大切なのが「主は彼らと共に働き彼らの語る言葉が真実であることを、……しるしによってはっきりとお示しになった」(20節)ことです。その言葉の中に、その言葉と共に、復活の主イエスが働いていて下さいます。そして語る者の不信仰をぬぐい、また他方で、伝えられる相手の不信を砕いて下さるということです。