説教 神がたたえられる
エフェソの信徒への手紙1章1〜6節
牧師 橋爪 忠夫
エフェソの信徒への手紙の冒頭は、「神の御心によってキリスト・イエスの信
徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信
ずる人たちへ」となっています。ここから、この文書が差出人がパウロであり、
宛先はエフェソの教会の人々への手紙であることがよくわかります。このよう
な相手の明確な手紙という形式の文書が聖書の中にあるということをしばらく
立ち止まって考えてみましょう。
私は以前に読んだイギリスのC・H・ドッドという人が書いた「聖書ーその今 日における意義」という本の最初を思い出しました。この本は聖書という文書 の不思議さをこう述べています。彼は図書館の書棚を想像して、聖書が図書館 のどの書棚に並べられるか、当然それは分類上、宗教という項目に、たとえば 仏典やコーランとともに収められるであろう。しかしもし、聖書の内容である 66の文書が別々になっていたらどうであろうか。特に旧約の文書は実に多様 です。とても一冊にまとめられるようなものではありません。歴史的物語、散 文、法律、ことわざ、道徳的格言、叙情詩、劇詩、預言者の文書、また礼拝儀 式の文書等々です。それぞれは、図書館の分類に従って、全く別々の棚に分け られなければならない、特に旧約は多種多様なもので、決して「宗教」という 項目一つに収まるものではない。しかし、にもかかわらず、これが聖書という 一冊の書物になっている不思議さ、統一性を彼は語っています。このような指 摘は興味深いものです。これを読んで、私はさらにその先があるように思いま した。確かに旧約の39の文書は実に多様です。ところが新約に目を移すと、 この27の文書は形式的に驚くほど単純です。前半は、福音書、そして後半の ほとんどは手紙です。なかでもパウロの書いたと言われているものが13あり ます。この聖書という文書の形式的な構成自体が私たちに何かを物語っている のではないでしょうか。つまり旧約の長い多様な神とイスラエルの物語や記録、 歴史は単純な新約の福音書と手紙を目ざしている。福音書とは単純に言えばイ エス・キリストを証しするもの、手紙とはその主に属する教会に宛てられたも のです。そして福音書とはマルコの福音書の終りにあるように、「全世界に行っ て、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(16章15節)で、福音 そのものであるイエスはすべての人々に、限定なしに宣べ伝えられなければな らない。しかし他方、それに続く手紙は教会を相手にしています。手紙という 文書は文書の中で、最も相手を限定したものです。手紙は主イエスを信じ、教 会に入れられた人々が、そこで何を信じ、どのように生きて「キリストの体」 なる教会を形遣っていくかを主題としています。そういう意味で、新約聖書の 後半に、このように明確に宛先を意識している手紙があることは意味深いこと です。
そこで当然、この手紙の冒頭にあるように、これがエフェソにいる聖なる者、 キリスト・イエスを信ずる人たちを相手にし、そこに集う人々を対象にすると いう限定があるとはどういうことなのか、なぜかということが第一に問題にな ります。そして次に、そういう人々が教会に集う者として、何が大切なのかが 問われるでしょう。 第一の教会の人々に相手を限っているのは、今日の私たちから見ると何か狭 さが感じられるのではないでしょうか。相手を明確に意識し、限定することは、 そこにはある人々は除かれていることを意味するからです。しかし当時の古代 の、たとえば有力なさまざまな宗教がある中で、自分たちがなぜキリストを信 じ、そこで教会生活をするようになったかを考える人々にとっては、別の意味 があったのではないでしょうか。つまり、キリスト者として教会に招かれ、そ こで生活し続けるために、確かさが必要でありました。古代の世界においては、 人々はすべてのことの成り行きは偶然や運命に左右されると見だからです。運 命や偶然を古代の人々がどれくらい恐れ、不安を常に懐いていたかを思い出せ ば、そのことはよくわかるのでしょう。また一方、今日のように自由や人の意 志が強調される時代でも、私たちが、もし人間の意志や力で神と出会ったとい うことになれば、その根拠には確かさはありません。自分の意志でまた変わる こともありうるからです。そのようなキリストにある者の時代を問わず、胸の 内にある、本当に自分は教会に招かれ、そこに居続けることに揺るがぬ確かさ、 つまり本当に神の相手であり、キリストの救いの対象であることを確信できる 確かさが必要ではないでしょうか。それに対して、パウロは驚くべき言い方を しています。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる 者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・ キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったの です」(4−5節)と。あなたがたという教会に集うものに相手を限っているの は、神から出ていることである。それは神の選び、御心によって前もってなさ れた神の定めであるとパウロは語っています。特に「天地創造の前」という言 葉は驚きです。心の内で動揺多い人々に、神があなたがたを選んでいる、しか もそれは創造以前からだということは、わたしたちが生涯の中で経験するあら ゆる動揺や不確かさを帳消しにする確かさがあるのではないでしょうか。それ はすべて神から出ているということです。どうしてその後に胸をよぎる動揺に 流されることがあってよいでしょうか。
それと同時に大切なのは、そのようにエフェソの教会の人々、また私たちが 教会に招かれそこに身を安らわせることができるのは何のためか、その目的は 何かということです。そのことも神の選びと定めから出ているということです。 それは何か、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほ めたたえられますように」(3節)、「神が……わたしたちがたたえるためです」 (6節)、「神の栄光をたたえるためです」(12節)、「神の栄光をたたえること になるのです」(14節)と、今度はわたしたちこそ、神さまに目を注ぎ、ほめ たたえるためです。