説教 秘義としての聖餐

コリントの信徒への手紙一 11章23〜26節

東京神学大学名誉教授 赤木 善光

   聖餐を語る場合に普通は次の二つの面があります。一つには、聖餐のパンとぶどう酒に、どのようにキリストがおられるか、聖餐におけるキリストの現臨、実在ということです。もう一つは聖餐に与かることによって何を得るのかという効果ということです。この後者については教派が違っても、あまり意見の違いはありません。罪の赦しと永遠の生命が与えられるという一致があります。しかし前の方の点については意見の分かれる難しい面があります。そして今日はその前者について申し上げます。それで「秘義としての聖餐」という題をつけました。秘義というのは言葉を換えれば「謎」ということです。理性で私たちがどんなに考えても限度があり、矛盾や不合理であるけれども、他方これは考えれば考えるほど、これでよいというところに終らぬ無限に深い内容があるということです。一般に学問や科学の世界では理性をもって謎とされることの仕組みを解明し、それを理性のコントロールのもとに置いて利用するということになりますが、聖餐をそのように理性のもとにおくことはできません。私たちはこの秘義の前には畏れかしこむことが大事です。

  聖餐におけるキリストの実在ということは、簡単に言いますと「これはキリストの体である」という言葉の「である」ということをどういうふうに考えるかにかかっています。これについて次のような典型的な二つの考え方があります。一つはキリストの体をあらわすパンを、たとえばレストランのショーケースにあるサンプルのようにとらえる、つまりそれはあくまでサンプルであって、本物は店の中で別に食べる食べ物だというように合理的に割り切る考え方です。ところがこの場合、それではその本物、つまり本当のキリストの体はそれではどこにあるのかということが、途端に難しい問題として起こって来ます。もう一つは聖餐のパンはキリストの体そのものであるとか、その中にあるというカトリックのいわゆる化体説です。これに対してはあまりにパンとキリストの体そのものを一つに見ていて、迷信的、また偶像崇拝だという批判がなされます。つまり一方で偶像崇拝に陥ってはいけない、他方あまりにわかりやすくサンプルのように割り切ってもいけないというジレンマがあり、このような典型的な理解をたどっても、聖餐は秘義だという観を深くします。

私自身がどうしてこういう聖餐に関心を寄せるようになったかと言いますと、一口に言えば、どうしたらキリストの実在をリアルに把握できるかということ、つまり私の信仰や救いの確信が本物であるかどうかは、その信じ、救って下さるキリストが、ここに本当におられるかどうかにかかっているからです。もしキリストがここに実在するということがはっきりすれば、私自身の救いも確実になります。しかし残念ながら、私たちはこの地上では、ここにキリストがおられるとはっきりと目で見るようにはいきません。使徒パウロが「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。…わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」(一コリント13・12)とあるようにこの世ではおぼろに、しかも一部分しかキリストを見ることしかできません。けれどもおぼろでも一部分でも、しっかり見、把握しなければなりません。それが聖餐を考える一つのポイントです。  それではこのような見方に従って聖餐において現臨するキリストをどのように部分的にしろ把握するかについて次の三つのことを申し上げます。

第一は、今私たちのしている礼拝にキリストが今、ここに生きて臨んでおられるということが礼拝の大前提です。もしキリストがおられないならば礼拝は成り立ちません。キリストについてこの地上ですべてを知ることはできません。しかし、礼拝においてキリストが今ここに居られ、とくに聖餐においてご自分を与えよう、与えようとしておられることは確実なことです。そのことを今ここで部分的にせよ把握することが大切です。その場合に特にキリスト御自身に与える側、陪餐者の側で祈りをもって、これを真剣にいただく必要があります。牧師のする説教を聞く場合よりも、陪餐者自身がマンネリや形式主義に陥らぬように努力する責任があります。ご自分を与えようとするキリストの恵みの豊かさを絶えず考えている必要がありま す。

  第二には「これはわたしの体である」というとき、キリストは現在どういう方としておられるかということです。キリストは死より復活して、体をもって甦っておられる方です。ですから現在キリストは体をもって生きておられます。そのキリストの肉と血をもった体を、今ここで信仰をもって受けるのが聖餐です。それをどのように受けるかが問題です。このようなキリストの体を把握するためには、私たちの体の感覚を生かすことが必要です。目で見ること、司武者の言葉を耳で聞くこと、手で触れる、舌で味うことを働かさなければなりません。キリストが体をもってご自分を与えたもうのであれば、私たちもそれを体をもって受けなければなりません。そこでキリストの現臨のリアリティー、つまりその肉と血に与かることが大切です。その意味でキリストを味うということは深い意味をもっています。

  第三にこのように聖餐においては、キリストの体をよくわきまえることが必要です。「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(一コリント11・28〜29)とパウロが述べているとおりです。キリストがどのような方であり、どんなに大きな深い救いを、この場において肉と血をもって与えておられるかをわきまえることが必要です。そし同時に、私たちが自分自身わきまえ、罪の深さを知る必要があります。私たちは自分の罪の故にキリストの救いを信じています。ですから罪の深さ故に聖餐を避けるということはありえません。私たちの罪の深さ以上に、キリストの恵みと赦しは大きく豊かである、だから罪意識を乗り越えて、キリストの体の豊かさに与かるべきです。 (10月27目礼拝説教)