説教 われらは皆、主の復活の証し人

使徒言行録2章22〜36節

牧師 橋爪 忠夫

 今年の年間標語は、この使徒言行録2章32節の「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」から取られたものです。ここから「われらは皆、主の復活の証し人」としました。その際に、標語ですから言葉を縮めたり、言い換えを多少、私は工夫しました。その一つが「証人」ではなく「証し人」としたことです。それはこういうことを思い出したからです。ある人が日本語というのは、世界でも特異な言語だということを指摘して、何故なら音読みと訓読みがある。一方は漢(から)ごころ、他方は大和(やまと)ごころでその二重性が日本語と日本を豊かにして来たということです。しかし音読みの言葉が続くと、漢ごころとなるように、外来の言葉で、聞いていてどこかよそよそしくなって来ます。他人事のようになります。そこでそうではなく私たち自身のことだという意味で「証人」ではなく「証し人」という訓読みにしました。


 このようにこの標語の言葉にこだわったのは、そもそもこれが出て来るのがペンテコステの日であり、それは一面から言えば言葉の上で起きた革命的な、また奇跡的な出来事だからです。この日に約束の聖霊が降り、教会が誕生しました。それはそこに居合わせた人々に「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(6節)という出来事でした。つまり世界中からエルサレムに集まった言葉の違うユダヤ人たちに、それぞれの故郷の言葉が話されるように感じられた、わかったということです。それがどういう出来事かを説明しているのが、このテキストのいわゆるペトロの説教です。従ってこのペトロの説教の一節から取られた標語も、深い意味で日本語化されなければならない、よそよそしい響きを出来るだけ解消する必要があるのです。しかも、こ.の標語は、このペトロのペンテコステの日の説教のクライマックスの言葉、ペトロたちの立場を語ったものです。これこそまさに教会の立場、そこに拠って立つ最も深い内容が込められた言葉です。そしてこれこそ私たちも帯びている「伝道」という使命を:言で語ったものです。

 そこでこのテキストから、次の二つのことを聞きましょう。一つは「われらは皆、証し人」だということ、次に「主の復活の証し人」だということです。聖書の原文を読みますと、「われらは皆」ということが大変に強調されていることがわかります。この言葉は私たちも普段よく使う言葉です。家族や友人の仲間、会社やグループで「わたしたちは皆」と言います。そこに一つであるという一体感、強い絆が感じられます。しかしそれがいつもよいというわけではありません。いかにもそうであるかのように装う場合も多いのではないでしょうか。日本の文化は人の「和」を大切にし、私たちは皆ということに敢えて挑戦する人に対しては、「出る杭は打たれる」式の非難を浴びせます。また私たちの民族性はどこか人と一緒でないと不安になるところがあります。そういう意味で日本を高めるために「個」とか「自己」が強調されなければならないという批判は当っていると言わなければなりません。「わたしたち」とか「われらは皆」は批判的に、できれば否定されるべきだと言われて来たのは、一理あることだと私は思います。しかし同時にそれでよいのだ、究極まで個人や私を強調すれば事足れりではありません。人間は個人でも集団でも、いつも悪魔に変身します。主イエスを十字架の死に追いやったのは、ユダの個人的な裏切りに始まり、ピラトの前で「十字架につけよ」と叫ぶ「われらは皆」でした。大切なことは本当の意味で「われらは皆」と言える集団、そして本当の意味の「われ」が現われることです。それはどこで、どのようにして言えるのでしょうか。それは主イエスが死を滅ぼして、復活し、「われ」ならぬ「われ」が現われ、主イエスの復活の体の中で結ばれる「われらは皆」が明らかにされてはじめて言えることです。そうでないかぎり、いずれの「われ」も「われらは皆」も巨大な死の力の前に砕け散ってしまうでしょう。主イエスの復活を拠り所とし、それを語り、それを表わそうとする人々こそ、始めて「われらは皆」と言えるのです。そして、それは私たちも言えるのだということです。

 

 次に、それでは「主の復活」の証し人とはどういうことでしょうか。このペトロの説教では主イエスの復活をこのように語っています。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで〔原文では「神の意志の決定と予知」〕、あなたがたに引き渡されたのですが、…十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(23〜24節)と語っています。言い換えれば、主の復活は決して偶然や思いつきのものではなく、神のご計画にもとづく必然だということです。これは確信に満ちた証言です。主の復活を単なる一つの出来事ではなく、自らの立場とし、その「われらは皆」の内容と中核にしている人の言葉です。そのような確信、そのような内容を彼はどのようにして得、それを証ししているのでしょうか。それは聖書からです。ここにはダビデが作ったと言われる詩編16篇の「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」という一句が、主イエスの復活を裏付け、予告するものだと言われています。これは本来はダビデ(あるいは一詩人)が重病の際に、必死に死を逃れようとして祈ったものだと言われています。しかし、ペトロはこの詩の言葉の意味はもっと深く大きいものだ、何故ならダビデはすでに葬られ、その墓がエルサレム市内にあり、他方、キリストが死者の中から復活し、ご自分を弟子たちに繰り返し現わしたという事実から、もっと深く神の計画を読み取って語っているのです。キリストの復活から聖書を読むとこのように確信が生まれ、希望が生まれ、また証しする言葉をも与えられるのです。
 共にこの一年、この証しをして行きましょう。