説教 神にかたどられた新しい人

エフェソの信徒への手紙4章17〜24節

牧師 橋爪 忠夫

 すでに2月に入りますと、この説教題にあるような「新しい」という実感が薄れてくる頃かもしれません。しかしこの聖書の言葉から、いやそうではない、私たちにとって「新しい」というのは一時的な雰囲気ではなく、「神にかたどられた新しい人」に造り変えられることは常に新しいのだということを学びたいと思います。
 エフェソ書のこのテキストで使徒パウロは、こう強く勧めています。結論的には、「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しい清い生活を送るようにしなければなりません」(22〜24節)と。やや複雑な文章ですが、その趣旨は明らかです。短く言えば、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けるべきだということでしょう。ここには古い人と新しい人の鋭い対比があります。また身に着ける衣服のたとえを借りて、古い服から新しい服への着替えが言われています。さらにその着替えは単に衣服のことではなく、脱ぎ捨て、新しく身に着けるのは、人間だ、古い人から新しい人へだということです。これは少し考えるとおいそれと合点がいくものではありません。何故なら普通、人間は新しい、初々しい人間から年をとって古い人になって行くからです。古い人から新しい人に変わるのは、それとは全く逆だからです。いったいパウロは何を思い浮べてこのようなことを言っているのでしょうか。もう少しこのテキストを引用しましょう。


 彼は古い人とは「以前のような生き方をして、滅びに向かっている人」と語り、またそれは「異邦人と同じように歩む」(17節)ことだと言い、他方、新しい人とは、随分直截な表現ですが「あなたがたは、キリストをこのように学んだ」(20節)、また「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだ」(21節)と言っています。これは具体的に何を意味するのでしょうか。この古い人と新しい人の境目に何があるのでしょうか。それは端的に言えば、洗礼です。イエスをキリストと告白して洗礼を受ける、これは彼に言わせれば、それはまるで古い人から新しい人に人間が変わるという大きな変化であるということです。皆さんも経験した洗礼、それは人それぞれにケースも場所も、またそれに至る経過も違うかもしれません。しかしその本質は同じです。その本質はパウロがローマの信徒への手紙の6章のまる一章を費やして述べていることです。その要点は、キリストと共に死んで葬られ、キリストと共に新しい命に甦るということです。この洗礼を境目として、私たちは古い人から、全く新しい人に生れ変わるという大きな変化を経験します。


 ところがここでパウロが言っている問題は、私たち自身はそのように大きく変わったとしても、私たちを取り巻く生活の場は、世界は変わりません。この手紙の相手であるエフェソの教会の人々は、ローマ帝国、アジア州の州都、大都会のエフェソの住人たちでした。わずかの人数の人々の変化などは呑み尽くすほどの繁栄した異邦の都エフェソでした。洗礼を受けたということなど忘れさせるほどの圧倒的な文化、生活のシステムがありました。そういう中で、いつしかキリストにあって新しい人とされたことなど薄れて行き、忘れ去ることは往々に起ることです。彼がここで問題にしている生き方とか倫理とはそういう問題でした。いつの間にか身につけた新しい人を忘れ、.かつての異邦人であった古い人に逆戻りしてしまうという教会の課題でした。それに対して、あなたがたは主イエスの十字架の死によって滅びに向かう古い人を脱ぎ捨て、主の復活によって新しい人、永遠の命を身に着けているのだとパウロは訴えているのです。それと同じことが、異邦の地にあり、またこのような大都会に住む私たちにも当てはまるのではないでしょうか。



 そのことを忘れず、一層心の底から新しくされるためには次の二つのことが必要です。 一つは以前の、約束も、希望も、神も知らぬ(2章12節)異邦の生き方の根底を深く見究めることです。パウロは異邦の世界の生き方を手厳しく批判して、「愚かな考えに従って歩み、知性は暗く、彼らの中には無知と心のかたくなさがあり、神の命から遠く離れ、無感覚になって放縦な生活をし、ふしだらな行いにふけってとどまるところを知らない」(17〜19節)とまで言っています。これは決して表面的な観察ではありません。一
面的な極端な批評でもありません。その根底には、キリストが死んで、私たちを甦らせるほどの、滅びと死に向かう生から解放する力がないということです。だから、このような批判が的を射ているのです。滅びと死に向かう私たちを救いうるのはキリストのみだからです。

 ヨーロッパは15、16世紀に「新しい人」を求めて大変革を経験しました。ルネサンスと宗教改革です。中世から近世へと世界は大きく変貌しました。この担い手であった宗教改革者ルターやカルヴァンを私はしばしば思い出します。彼らは一方でルネサンスの薫陶を受けた一流のフマニスト(人文主義者)でした。それは人間の可能性に目覚め、新しい人間の生き方を求めるものです。しかし、宗教改革者はそれに満足しませんでした。人間にどのような新しい可能性があるとしても、古びて行く人間、滅びに向かう人間を新しくすることはできない、それができるのはキリストのみだということです。それが宗教改革でした。彼らはキリストを深く学んだのです。

 それでは次に、「古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着ける」とはどういうことでしょうか。それが端的に言えば「キリストを学ぶ」ことです。それは具体的にどうすることでしょうか。古来、洗礼を受けるときに身に着け覚えたのは「使徒信条」でした。これは洗礼信条とも呼ばれています。ここにキリストはどういう方か、新しい衣、新しい人として私たちが身につけるキリストの人格が見事に表わされています。これを日々告白することです。ある人はこのような信条は身と心に深く刻みつけるものだと言っています。