説教 家庭の意味

エフェソの信徒への手紙5章21-33節

牧師 橋爪 忠夫

 この聖書のテキストは、「妻たちよ」、「夫たちよ」(22、25節)とありますように、一口に言えば、夫婦に対して、あるいは家庭に対するパウロの勧めです。そして一見した印象でも、かなり念入りな勧めになっています。そのことは、この「エフェソの信徒への手紙」と内容も構成もよく似ている「コロサイの信徒への手紙」の該当箇所と比較してもよくわかります。コロサイ書では、「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当ってはならない」(3章18-19節)とたった二節で短くまとめられています。それに比べると、エフェソ書の方は驚くほど入念に記されています。多分、両者ともその趣旨は変わらないでしょう。しかし、このエフェソ書の方では、夫婦やそれを中心にして営まれる家庭について、入念に勧めなければならない何か事情や理由があったことが想像されます。それは結論的に言えば、夫婦生活や家庭生活を実際的に円滑に運ぶだけでなく、掘りさげた意味づけが必要となったからです。夫婦や家庭の土台が何であるか、その根本的な捉え方が問題となったからです。夫と妻が家庭を形造ることの深層が問題となっているからではないでしょうか。
 このパウロの勧めの文章を読むと、驚くほど同じ一つの言葉を繰り返して使っていることに気づきます。それは「ように」という言葉です。全部で八回も使っています。たとえば妻に言われているところでも、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです」のとおりです。つまり夫と妻の関係は、単にその両者の関係に終るのではなく、その背後に、あるいはその土台にキリストと教会の関係が控えている。妻と夫との関係は、教会とキリストとの関係になぞらえられている、類比されているのです。それがこの「ように」が多出している理由です。キリストを主とする妻も夫も、その家庭も、その両者の間柄は、最早それ自体の関係に終るのではなく、キリストと教会の間柄を離れてはありえないということです。あるいはむしろ、その両者の関係は、キリストと教会の関係に向かい、それを映し出すためにあるのだということです。

 古くから人間の営みは、夫婦や家庭を抜きにしてはありえません。しかし、その意味づけは、キリストを知る以前と以後では全く違って来ます。しかもその意味づけには宗教的な側面があります。私はこのパウロの時代のエフェソの市街の遺跡を訪ねたことがあります。エフェソの町の守護神はアルテミスという女神でした。そのことは使徒言行録の19章に詳しく記されています。この遺跡の近くにある考古学博物館で、私は発掘された種々な大きさのアルテミス神の像を見ました。それは一口で言えばいずれも豊穣の化身と言うべきものです。数多くの乳房を胸一杯につけ、体には羊や豊かな果実が描かれていました。これらが町のそこここに祀られ、家庭に飾られていたことを想像してみて下さい。つまりこのような女神の姿、その宗教的意味づけをもって夫婦の営みや家庭が捉えられていたのでしょう。家庭や夫婦は物を産み出すこと、豊かな生産こそ、その意味であり、祝福であったのです。旧約に出て来るバールとアシュトレトもそれぞれ男神と女神で、イスラエルはヤーウェなる唯一の神に背き、幾度もこれらを拝む偶像礼拝に陥りました。このバール神、アシュトレト神が異教の夫婦や家庭の原型でした。それ故、家庭に求められたのは豊かな生産です。これが家庭の意味と目的でした。勿論、夫婦や家庭にそのような生産の恵みと祝福があることは喜ばしいに違いありません。しかしそれが第一ではない。それが究極の意味ではない、そうパウロは語っています。

 「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。……教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(22、24節)、「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。…そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」(25、28節)と。つまり妻と夫との仕え、愛する関係自体が夫婦であることの第一の意味であるというのです。この仕え、愛し合う人格関係自体が最も大きな祝福なのです。たとえこのような豊かな収穫はなかろうと、二人のつながりに大きな意味がある。「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。』この神秘は偉大です」(31−32節)と言われています。なぜならそれは「キリストと教会」の関係を指し示すからです。このような夫婦の捉え方は全く革命的です。それまでの夫婦や家庭の意味づけを覆すものだと言って差し支えありません。

 夫婦の関係はキリストと教会の愛し、仕える関係に類比する。その関係は、キリストと教会の関係に近づくまで高められ、一体となるという神秘にまで深められなければならないと彼は言います。そこに夫婦関係や家庭というものの人格関係に、測り知ることのできない深淵が開けて来ます。それは人間同志の人格的な関係に終るのではなく、キリストと教会の関係、つまり、神が人を愛し、人が神に仕え、愛するという聖書全体が証しする神と人との契約関係が広がって行きます。それはまことに大きな秘義です。

 ヨハネによる福音書の21章に、復活した主イエスが弟子たちの前に現れた第三の場面が記されています。それはガリラヤ湖の岸辺で、しかも朝の食事の場面でした。主はご自分で朝の食卓を用意し、パンを取り、また魚を取って弟子たちに仕えられました(12〜14節)。これは復活の主が、家庭に臨んで下さる、自ら食卓を備えていてそこに招いて下さるということです。この主の招かれる食卓に与かるというのが教会の原型です。それが教会の守る聖餐であり、ここにキリストと教会は一体であることを表わしています。それはまた実に日常的な家庭の食卓、夫婦の関わりにつながっています。教会にも家庭的な交わりが望まれるかもしれません。しかしさらに大事なのは、家庭や夫婦の交わりが教会的になることです。