説教 証し人を補う

使徒言行録1章12〜26節

牧師 橋爪 忠夫

 主イエスは復活後40日の間、たびたび弟子たちを訪れたあと、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章8節)との言葉を残して、天に上げられました。このテキストはそれに続く、ペンテコステ(聖霊降臨)前夜に相当する時期が舞台です。その前夜を総括するのが15節以下のペトロの演説であり、また「証し人を補う」という行動です。特に本来12人であるべき弟子の間で、イスカリオテのユダの欠けを補うという行為は象徴的な意味があるのではないでしょうか。というのは、ユダの欠けとは、弟子たちにはたいへん大きなことでした。彼は主の最も身近にいたひとりでありながら、主イエスを十字架の死に引き渡す手引きをし、その最期はあまりにも惨めなものでした。ユダの欠けとは、彼の醜い裏切りと主イエスの十字架の死、つまり主イエスの抹殺ということを合わせて意味します。それは深い謎を秘めた空席、そこから闇のような深淵が顔をのぞかせるような欠けでありました。従って、その欠けが補われるということは象徴的です。その闇のような深淵がおおわれ、克服されたということだからです。この際の「証し人を補う」ということは、人の世をおおう闇の克服だといっても差しつかえないほどの意味があります。そこから立ち上ったということです。それが可能となったのは、主イエスが復活し、弟子たちに現われたという一事に尽きるでしょう。
 私はこの闇を克服し、悲劇を乗り越えて立ち上ったことから、ある私の経験を思い起します。時は今から丁度40年前、1963年の11月のことでした。翌年の東京オリンピックに備え、その夜初めて日米の人工衛星によるテレビの生中継が行われました。当然アメリカからの初中継の、にぎやかな祝いが送信されると期待して、画面を見ていました。ところが画面に現われたのは墨画きの日本字、この最初の中継で、こんなにも悲しい事件を伝えなければならないのは大変残念ですという音声と共に、「今日、ケネディー大統領がダラスで銃撃され、殺されました」というものでした。そしてオープンカーで銃弾に倒れる場面が映し出されました。私はその時、興奮を抑えることができませんでした。私が皆さんに紹介したいのは、その次です。ただちにジョンソン副大統領が大統領に就任し、彼が翌日大統領としての就任の演説をしました。その冒頭は「悪夢は終わった(Nightmare is over)」です。これは大統領が再び立ち上がったことを深く印象づけるものでした。
 ケネディーの悲劇も大きいものですが、主イエスの十字架の死とその手引きをしたのが弟子のひとりであったことはそれ以上の悲劇です。しかし、このペトロの演説と証し人を補ったということは、その悪夢に終止符を打ち、そこから立ち上がったことを強く印象づける行為です。それは悪夢の闇の深さにも益して、不思議なより大きなミステリーです。この克服と立ち上がったということに、より大きな神秘を見、その理由を尋ね求めなければなりません。

 どうしてペトロを始め、11人の弟子、そしてその仲間は、雄々しくそこから立ち上がることができたのでしょうか。その理由の一つは、ペトロの演説の文章の、二つの冒頭にある原文の言葉が物語っています。それは「この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」(16節)と「主の復活の証人になるべきです」(22節)の二つ、原文ではいずれも同じ「デイ」という言葉です。それは深く見れば、これらの悲劇も決して偶然に起ったのではなく、神の計画により起るべくして起った必然だということです。そしてこの悪夢は乗り越えられるためにあったということです。バルトという神学者が、ユダの最期である「体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまった」(18節)というくだりをこう解説しています。それは神から離れるということの結末であり、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまったとは、すぐれて内面的な現象である。つまり神から離れるということの隠れた醜さ、恐ろしさが暴き出されたことを意味すると。それは暴き出されなければならなかった。そうする必然があった。なぜならそれを暴き出し、さらにそれを克服するのが主イエスの十字架の死と復活であるからです。人間が隠し持っていた神に対する最も醜いものが曝け出され、しかもそれを克服し、乗り越えさせるものがある、それが主の復活であり、復活の主を証しするということです。これは証し人を通して証しされなければならないのです。
 二つ目はひとり欠けた11人に、もうひとりが証し人として補われ、12人がそろわなければならないということで、マティアという人がその空席を満たしたということです。その候補となる条件は、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、…わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」(21、22節)であることです。具体的には主が復活して、その復活の主と40日間を共にした人ということです。そのような人が、主の復活の証人にふさわしい。イスカリオテのユダの席にはそういう条件を満たす人が補うべきだ。この席は12人の中の一つですが非常に暗示深い、劇的な意味をもった席ではないでしょうか。これも先のバルトですが、こういうことを言っています。「いったい誰がユダではなかったと言い切れるのか」というのです。ぺトロ、ヨハネ、ヤコブという11名も、いずれもユダになる可能性がありました。彼らも主を裏切り、主のもとから逃げ出しました。たとえ、敵が主を十字架につける手引きをしなくともです。その彼らの意のあるところを代表したのがユダでした。それを引き受け、十字架につけられ、復活されて、ご自分を現わし、その罪を赦して再び立ち上がらせたのは主イエスその人です。救い主ご自身です。するとこの空席は人の罪の深淵を象徴するとともに、それが主イエスによって乗り越えられたことを象徴する、まさに栄えある補いをあらわす席です。この席が何によって補われたかを物語ることこそ、主の復活の証人の証しの内容です。