説教 すべてをささげる
使徒言行録4章32−5章11節
牧師 橋爪 忠夫
ここに与えられた聖書のテキストは主イエスの死人の中からの復活の後、ペンテコステによって生れた初代教会の様子を記したものです。それによれば、初代教会では持ち物を共有し、土地や家をも売って代金を持ち寄り、必要に応じて分配するという、物心両面にわたる手厚い協力がとられていたことが記されています。その中でも、バルナバという人の、自分の財産である畑を売り払い、その代金のすべてをささげるという献身的な行為を印象的に語っています。しかしそれに対して、私たちの目を奪うのは、アナニアとサフィラという夫婦の行為とそれに対する厳しい処置ではないでしょうか。彼らはバルナバの行為に触発されて、自分たちの土地を売り、その代金を確かにささげたのですが、それは一部を全額と偽るものでした。それに対する使徒ペトロの対処は、「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(4節)という宣告であり、そのもとにアナニアは倒れて息が絶え、またサフィラも同様にその後を追う結果となりました。今日の見方からは多分、ショック死ということになるでしょう。この処置に多くの人は、あまりに厳しいと驚き、むしろこのような一面から初代教会に幻滅を味わうかもしれません。
いったいこのような記事をどのように理解したらよいのでしょうか、それがこの聖書のテキストが私たちに問いかけていることではないでしょうか。それに答えるためには教会というものの根本から考えてみなければならないと思います。その根本とは、教会の中心にあるのが礼拝だということです。そしてこの礼拝とは何かというところから考えてみなければ、初代教会の物心両面の協力関係も、またアナニア夫妻の事件の真相も明らかにならないと思います。それでは、その礼拝とはいったい何なのでしょうか。それを表わす表わし方はいくつもあるかもしれません。私はある人が礼拝とは、「キリスト者の生活の縮図」と言っているのに示唆を与えられました。つまり礼拝とは、私たちの普段の生活から分離したものでなく、信徒の生活全体を圧縮し、その全体のエッセンスを表わしているということです。
具体的に礼拝が私たちの生活の縮図であるとはどういうことかは、こういうことを思い出してみると一層明らかになるのではないでしょうか。私たちの礼拝は主イエス・キリストを通して父なる神を仰ぎます。この主イエスが十字架の死の場面で祈られた最後の祈りは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)です。主イエスのこの地上の生涯の最後を閉じるこの言葉も、実は父なる神を拝する礼拝です。この「霊」とは「息」とも「命」とも、また「生活」という意味にも広げることができます。つまり主イエスのすべて、その生活すべてが、どの断面をとっても礼拝である、その主イエスによって示される礼拝は、何か生活の一部ではなく、そのすべてに係わりをもつものだということです。そしてそれらすべてが父なる神に委ねられるのだ、ささげられるのだということです。言葉を換えて言えば、このような主イエスを通しての礼拝によってはじめて、持ち物のこと、この世のこと、さまざまな思い煩いが絶えない私たちの生活に、分裂ではなく、統一が与えられるのが礼拝です。ですから、礼拝によって生活の縮図が与えられることにより、私たちの生活もどこを目ざし、何のためのものかも明らかになるのではないでしょうか。
主イエスによって示される礼拝とは私たちの生活すべてに係わりをもつものです。主イエスがそのすべてを父に委ね、ささげ切ったように、私たちは礼拝を通して、私たち自身もその生活、そして持ち物も神にささげられるべきことが明らかにされます。有名なハイデルベルク信仰問答にある第一問の問いと答えの一節もそのことを表わしています。
「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と。
これも主イエスを通して示された礼拝から出て来た言葉です。キリストのものとは、わたしたちのすべてが神にささげられるものだということです。
このように見て行くと、礼拝によって私たちの生活に統一が与えられ、私たちのすべてが神にささげられることが明らかにされるのにもかかわらず、アナニアとサフィラが持ち込んでいるものがいかにそれに反するものであるかがわかるのではないでしょうか。彼らは一部を全部と偽ってささげました。それは礼拝というものに全く反することです。礼拝と生活に分離が持ち込まれます。一部は自分に所属するもの、その生活のある部分は神にささげられることから除外されているのです。
ペトロがアナニアを糾弾する言葉の中に、「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ」(5章3節)という言葉があります。この「心を奪われる」とは意訳の言葉で、元の言葉は「心を満たす」という意味です。ささげるというのは全面的なことで、もし一部を自分のものにということがあれば、それはささげることになりません。いやペトロの洞察によれば、それこそ神に反するサタンに満たされていることになるということです。それを許すことによって心は分かれ、やがて神と離れて行かざるをえません。
キリスト者の礼拝はさらに大きいことを言い表わしています。それは次のような言葉です。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向って声をあげて言った。『主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です』」(4章24節)と。つまり、この世界にあるものすべて、天と地と海のものは神が造られ、それは神のもの、神にささげられるべきもの、そのことを明らかにすることがキリストがこの地上を歩まれた生涯の目的でした。この世界すべてが神礼拝に組み入れられなければならない、礼拝は文字どおりこの世界のすべてに係わるものだということです。