説教 キリストヘの手引き
使徒言行録8章26〜40節
牧師 橋爪 忠夫
私たちは、幸いにも教会につながり、主イエス・キリストの福音を知る喜びを味わっていますが、もう一方でそれにとどまるのではなく、このキリストの福音が、もっと他の人たちにも知らされたらよいのにという願いをもっています。もっと多くの人々がキリストと出会い、福音を信じる喜びを私たちと一緒に分かち合うことができればという願いがあります。こういう願いをもつことが、伝道ということの素朴な発端ではないでしょうか。そういう願いが私たちの間にもっと旺盛になり、その輪が広げられなければと私たちは思います。そういうことを考えながら、このテキストの物語を読むと、何か光を与えてくれるように感じます。
この物語、それは伝道の物語ですが、やや特殊なものです。特殊だというのは、一つは、ここでキリストの福音を知らされ、その喜びにあずかった人は、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官(27節)であった点です。彼はユダヤ人ではなく、異邦人であり、それも異邦の国の政府の中枢にあった人、しかもユダヤ人が嫌った宦官でした。このような文化的にも社会的にもユダヤ人と隔たりの大きな人に福音が伝えられた不思議さには興味尽きないものがあります。しかし、もう少し違った特殊な面、しかも私たちとも深いつながりがある点に目を留めてみたいと思います。それは28節にあるように、彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたという点、つまり彼は聖書をもち、それを読んでいた、これが彼がキリストの福音を知り、キリストと出会う端緒となったということです。今日の私たちにとって、日本でも、また世界の多くの国々でも、自分の手もとに聖書があって、それを読めるのは特に珍しいことではありません。しかしこの当時においては、自分の聖書をもち、それを読めるということは全く例外的なことでした。何故なら、当時は聖書は羊皮紙やパピルスに手書きで書き写されたもので、とても貴重なものでした。個人で所有することは不可能に近いことでした。また聖書はヘブライ語かギリシア語で書かれていたので、言葉の壁も大きいものでした。このエチオピアの高官が持っていたのはギリシア語の旧約聖書のようですが、それを読むためには高い教養が必要でした。彼はそれを読むことができた当時としては例外中の例外の人です。しかし今日においては、このように自分の聖書をもち、読めることがキリストの福音への門戸となることは決して特殊なケースではありません。
特に日本のプロテスタントの伝道を振り返るとそのことはよく当てはまります。明治時代に日本に福音を伝えた宣教師たち、また先達たちは何よりもはやく、聖書を翻訳し、日本語で聖書を読めるようにし、それを広く頒布しました。その努力は、たとえばアメリカの宣教師ヘボンの聖書翻訳の労苦の跡をたどるとよくわかります。彼は聖書翻訳の前段階として、ヘボン式ローマ字の発明、最初の和英辞書を作り、その末に数人の人々とともにその翻訳を完成しました。さらにそれに数々の手が加えられたものが、現代の私たちの多くが手にしている聖書です。このように聖書を人々の手許におくり、それを読めるようにすることが日本の伝道の大きな特徴です。
ところでその聖書を手にして読んでみて、それですぐ福音に目が開け、キリストと出会う喜びが誰にも訪れるというものではありません。このエチオピア人の高官の場合にも、むしろ聖書を読み進めて行くうちに大きな壁が立ちはだかっているのに気付きました。高官の馬車を追いかけるフィリポの、「読んでいることがお分かりになりますか」(30節)との問い掛けに、彼は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(31節)と答えたのは切実なものでした。特にそれは旧約のイザヤ書にある、「苦難の僕の歌」(52章13〜53章12節)のくだりでした。これは旧約聖書の精髄とも言われる中心的なものです。聖書を読み始め、それを続けるとき、その中心点に来ると、何よりも「手引き」を必要と感じるのはこの高官だけではありません。そこに自分の読む力では乗り越えられない壁があることを痛切に感じるのです。そこで何よりも外からの導き、手引きを求めることになります。
いったいこの「手引き」とはどのようなものでしょうか。この場合はそれがフィリポという人物であったことは明らかであります。しかし単にこの人物がすべてであると言えるでしょうか。たとえばフィリポも単に自分の考えで、この高官のもとに近づいたのではありません。彼には“霊”すなわち聖霊の促しがありました。この高官が聖書を読み進めて行って、この「苦難の僕の歌」のくだりで、高く立ちはだかる壁の前に立ち、聖書の中心的に向う問い、「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか」(34節)、つまり聖書の中心点にひとりの不思議な人物がおり、それはただ読むだけでは明らかにならないというところまで導かれたのにも、私は不思議な導きを感じます。それにも隠れた聖霊の働きを思わせられます。このような導きに促され、そこに用意された道備えにのっとってフィリポは彼を手引きしました。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」(35節)と。つまりここには一連の導きがあり、そこにフィリポという人物をとおして、聖書の指し示す主イエス・キリストとの出会いが起り、彼は本当の救い主と出会えたという喜びが与えられました。
私たちはこのような伝道、このように福音に与る喜びが起り、分かち合われることを願います。そのために一方で聖書が人々の手許にとどけられ読まれるということ、もう一方でその門戸を開く「手引き」とか導きの大切さを知らされます。しかもその「手引き」も決してただひとりの人物やひとつの働きかけというものではありません。むしろ一連の、神さまが主導され、用いられて働かされる種々な人、時、知識などもろもろです。それらいっさいがそのために用いられます。このいっさいこそ「教会」に凝縮されるものです。なぜなら教会こそキリストの体であり、またすべてのものをキリストのために用いることを知っているからです。