説教 ぺトロの投獄と解放

使徒言行録12章1〜17節

牧師 橋爪忠夫

 使徒言行録の前半で、指導的な役割をはたした使徒ペトロの活動が終盤近くにさしかかろうとしたとき、身に降りかかって来たのが投獄でした。「へロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。…ヘロデはペトロを捕えて牢に人れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた」(1〜4節)と記されています。彼を捕え、投獄した当時の為政者ヘロデ・アグリッパ王の目論見は要するにヨハネの兄弟ヤコブと同じように彼を抹殺することでした。どうしてヘロデ王が教会への迫害の挙に出たのかは、さまざまな.要因があったようですが、一つはイドマヤ人としてユダヤ人に対して引けめのあった彼は、何よりもユダヤ人の歓心を買うことに努めていたからのようです。それがペトロ投獄と抹殺の企ての理由でした。その背後にはさらに複雑な政治的背景もありました。
 ただしここで注目したいのは、そのような目論見のもとで、使徒ペトロに牢獄につながれるような場面があったということです。しかもこの記事は使徒言行録に記されたペトロのほぼ終盤に属するものです。それにつけても思い起すのは主イエスがペトロの終盤の歩みを予告した次のような言葉です。「『はっきり言っておく。あなたは、若いときには、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(ヨハネ福音書21章18〜19節)。この予告がまさに的中しているのがこの投獄ということではないでしょうか。

 私は信仰の先輩たちの晩年が必ずしも手放しの幸いなものではなく、何がしかの不自由さを味わい、いわば「行きたくないところに連れて行かれる」に近いことが起ることを何回か見て来ました。それは終盤に投獄を味わったぺトロと通じるところがあるのではないでしょうか。いったいどうしてこういう試練が終盤にあるのでしょうか。その理由は人の目には隠されていて簡単にはわかりません。ただ聖書のいろいろなところを思い浮べてみると、こういうことが言えると思います。それはペトロを初め、キリストに救われ、キリストと共に歩む人に対して、この世の力とか神に背く罪の力というものは、本気になって彼らを葬ろうと挑戦して来ることがあるということです。ヨハネの兄弟ヤコブを殺し、今ペトロを捕え、剣にかけようとしているヘロデ王がまさにそれです。あるいはキリスト者への迫害を意気込んでいたかつてのパウロもそうでした。パスカルの有名な言葉に「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない、しかしそれは考える葦である。それをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である」という人間を深く洞察した言葉があります。これはまことにそのとおりなのですが、しかしペトロのような人間、キリストの救いと喜びを与えられた人間、かつて主イエスが彼を「岩」(ペトロ)と名付けたような人間は風のひと吹き、水のひとしずくで失われるようなただの人間では最早ありません。そのような人々に対してはこの世は、宇宙は武装しなければならないことを知っているのです。本気になって挑戦しなければならないことを知っているのです。そのような挑戦が、キリストの恵みを受け続けた生涯の終盤に起りうるということは決して否定できません。しかしそのような挑戦や試練を受けても尚一層大きな救いや恵みにあずかるということがあるのではないでしょうか。

 もちろん本気になってキリスト者に挑んで来るこの世の力に対して、キリスト者といえども人間的な自分の力でそれに対抗することはできません。ことに生涯の終盤にはそのような力はそれほど残されていません。そうではなく、それらに対して、あくまでも上からの備えと力が与えられます。
 このペトロの投獄に続くのは、そこからの解放の物語です。その解放の主役は使徒言行録の記者ルカが好む言い方で、「天使」によることがここに記されています。「すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、『帯を締め、履物を掃きなさい』と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、『上着を着て、ついて来なさい』と言った。それで、ペトロは外に出でついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った」(7〜10節)。このようにペトロを牢獄に閉じ込めた武力に対抗し、彼をそこから解放したのは終始一貫、天使の働きでした。そしてやがて彼は、エルサレムのヨハネの母マリアに家に集まっていたキリスト者の仲間との再会に至ります。
 それはまことに不思議な劇的な解放でした。この解放の経過の中で次の言葉に注意を払うことが大切だと思います。ペトロは当初は「天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った」(9節)。しかし救い出された後「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」(11節)ということがわかったということです。ペトロの目には世に抗する天使の力は初めは夢か幻のようにうつった、けれどもそれは、まぎれもなく本当だと分かったということです。ぺトロにも、そしてキリスト者にもその終盤に容易ならざる世の力、罪や死の力が臨むことがある。しかしその場面こそ、さらに大いなる上からの力が臨み、あたかも幻のようでありながら、やがて現実となる救いがある、そのためにこそ神は備えていて下さるのです。