説教 幼な子イエスのしるし

ルカによる福音書2章8〜20節

牧師 橋爪忠夫

 ここ数十年の間、私の知る限りでも、み子イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは随分と豊かになって来ました。私の子どもの頃は、クリスマスに教会に行ってもらうカラー刷りのカードが何よりも嬉しいプレゼントでした。しかし今ではクリスマスを盛り上げ、飾るグッズ類はたいへん豊富になりました。カード、ツリー、リース、ミュージック、絵本、ケーキやクッキー、そして最近では、町並の飾りとしてだけではなく、郊外の住宅街でも、家全体を飾るようなイルミネーションを目にします。これら以外にもクリスマスには、これは欠かせないと思えるものが実に豊富になって来ました。このことは一方から言えば、クリスマスには、こういう装飾や多様な祝いの表現を生むほどの豊かな内容があると言えますが、他方でそれらに心を奪われていると本当のクリスマスが何かを見失ってしまうことにもなりかねません。その意味でクリスマスに際して、クリスマスにあれもこれもと求めるのではなく、逆にクリスマスに欠くことのできないただ一つのものは何かを考えることは大切なことだと思います。この「欠くことのできないただ一つ」を尋ねることの大切さを主イエスはルカによる福音書の10章で次のようなエピソードで示されました。
 ある時、主イエスはエルサレムの近くにあるベタニアの村に住むマルタ、マリアの姉妹の家を訪ねました。彼女たちにとって最大のお客である主イエスをお迎えするということで、特に姉のマルタはいろいろなもてなしに心を砕き、忙しく立ち働いていました。そのマルタに対して、主イエスは何と言われたのでしょうか。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは多くはない。いやただ一つだけである」(41節)と仰いました。これが主イエスの御言葉です。そうであるならば、私たちにとっても同じではないでしょうか。クリスマスも、それに必要な欠かすことのできないものはただ一つのはずです。それが一体何かを尋ねることは大切なことです。

 ルカによる福音書の2章8節以下には、今から二千年前にベツレヘムの近くで野宿していた羊飼いたちが祝った最初のクリスマスの模様が記されています。その風景は実に殺風景なほど何もありませんでした。それには今日のようなイルミネーションも、意匠をこらしたクリスマスグッズも全くありません。あるのはいつもながらの暗い夜空と羊飼いたちが見守る羊の群のみでした。そういう何の装飾もなく、いつもと全く変わらぬ彼らに対して、突如として夜の闇を破って主の天使があらわれて、こういう知らせをもたらしました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉柄の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10〜12節)。するとこの天使の声に合い応じるように天の大軍の歌がどよめき、神を誉めたたえたと記されています。これがクリスマスの知らせでした。そして羊飼いらは、「さあ急いでベツレヘムヘ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と口々に語り、飼い葉柄に寝かせてある幼な子を探し当てた(15〜17節)と記しています。
 羊飼いたちにとってクリスマスに欠くことのできないただ一つのものとは何だったでしょうか。それは天使の知らせたとおり、ひとりの幼な子、メシアとしてお生れになった乳飲み子こそ、そのすべてです。もしこの幼な子を欠くならば、クリスマスの喜びも、それを讃える歌も、その他すべてのものも単なる飾りにすぎません。そこに救い主が、幼な子として生れた、それこそクリスマスに欠くことのできないただ一つのしるしです。

 しかし考えてみると手に何も持たず、全く無力な幼な子として救い主が与えられるとは何と人の想像を越えた驚くべきことか、そしてどうして幼な子なのかと問わざるをえません。そこに「民全体に与えられる大きな喜び」をどのようにしたら見出すことができるのでしょうか。一つにはこういうことがあります。飼い葉柄に寝る幼な子は力も知恵も人が欲する財力も何も持たぬ無力な存在です。しかしこの幼な子はご自分においては何も持たぬ存在でありながら、彼を世に送り出した父なる神とは深い絆で結ばれています。幼な子は父なる神と深くつながり、その信頼と愛の絆において、すべてを持っているのです。彼は一見、無一物であるかのようでありながら、父においてすべてをもっていると言えるでしょう。この幼な子を通して、私たちは彼のもたらす絆、父との深いつながりを思い起され、それを取り戻すことが、私たちの本当の救いであることに気づかされるのであります。これこそ人間が神によって創造され、命の息を吹き入れられながら、あのエデンの園(楽園)を去って以来、取り戻されなければならなかったものです。しかし人はそれに気づくことに何と長い間、鈍かったことでしょうか。旧約の預言者イザヤはその鈍さを、「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」(1章3節)と言って、造り主たる神の嘆を代弁しています。
 幼な子が人の救いのしるしとして与えられた、これはまたいわゆる大人を自認する人間にとって大いなる挑戦です。人は普通、幼な子のままでいることに耐えられません。手に、また頭脳に自立するための知識や技術を身につけ、できるだけ人に頼らぬ独立した人間に成長することを求めるからです。自立、独立、自主とは生れた直後から人の成長を鼓舞する合い言葉だからです。従って幼な子とは未完成の人間を表わすしるしに過ぎないと見られがちです。しかし真の自立や自主、そして自由とはそういうものでしょうか。真の自由と自立とは神以外の何ものにも頼らない人に成り立つものです。「真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8章32節)からです。幼な子を救いのしるしとして与え、その信頼すべき父との間の絆が取り戻されるためにクリスマスの日があります。