ローマの信徒への手紙1章16-17節
◆福音の力
(16)わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
(17)福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
牧師 橋爪 忠夫
今年の年間主題は「福音は救いをもたらす神の力」(16節)ですが、敢えて冒頭の「福音は」という主語を省いた説教題にしました。
その理由は最後にある「神の力」、あるいは「力」(原語ではデュナミス、英語のダイナミックの語源となるもの)に力点を置きたいからです。
というのは16、17節はたった二節ながらロマ書全体の主題を掲げたところで、その全体を極限にまで絞り込んだものだからです。
このたった二節にロマ書の主題である「神の義」、「福音」そして「信仰義認」というどれ一つとっても大きなテーマとなる言葉が次々と登場します。
いずれもおろそかにはできません。私はそういう中で、一見あまり目立たない「神の力」に力点を置いて今日はお話しさせていただきます。
そのことの大切さを今回気付かされました。ロマ書の中で「神の力」はどのように位置づけられるのか、一つたとえで申し上げましょう。
私はかつて大学時代に、川の流れ、水の流れを専門に研究しました。水の流れをよく観察すると、垂直の断面で言うと、表層、
中間、下部では流速は全く違います。表層部は速く、中間部はやや遅く、底部は驚くほど遅速で、その様相はグラフに表わすと歴然となります。
特にその底流は表層から見てはよくわかりません。しかしこの底流こそ目立たないながら、川の流れ全体を支えるものです。
しかも底流とは変化は少ないながら、流れ全体に一貫性をもたせるものです。丁度それに相当するのがロマ書では「神の力」という概念です。
ロマ書全体の構成は教理、ユダヤ人問題と倫理というように変化して行きますが、この底流に相当する「神の力」は全体に一貫しています。
言葉として表に現われるのはたった二回、1章の4節と終りの15章19節です。始めと終りに登場するのを見ても、
この「神の力」がロマ書の底流にあることは明らかです。
それではいったいパウロは「神の力」で、具体的にどういうことを思い浮べているのでしょうか。
それは結論的に言えば、まさに「福音」そのもの、つまりキリストの十字架と復活であります。まず前者を述べることにしましょう。
まず神の力とは十字架の力であるということです。ここに十字架という言葉は直接には出できません。しかしそれをうかがわせるのは、
「わたしは福音を恥としない」(16節)です。この「恥」とはあくまでも人間の側の主観を表わしていますが、それでは何を見て恥じる、
恥辱を感じるのでしょうか。それはキリストの十字架です。十字架とは、極悪人に対してなされる極刑です。誰もが十字架刑を誇りとはしません。
それは無力の象徴、愚かであり、醜く、呪いです。主の弟子たりは全員、その場には耐えられず、逃げ出したほどです。
これはローマ帝国が被征服民のなかで最も嫌悪した謀反人に配した見せしめの重い死罪です。
彼らはこれによってその強大な権力を被征服民に焼き付けました。独立心旺盛なユダヤ人にとってはとうてい耐えられぬものでした。
ですからそれは恥以外の何ものでもありません。パウロはしかし、それを「恥としない」と言うとき、
その十字架の底に、恥を感じる以上の力を見ているのです。ここにそれを執行する側の強大な力以上の「神の力」を見ているからです。
十字架に秘められた底力なるものを発見しているからではないでしょうか。一見無力に見える十字架に処せられたキリストにどんな力が秘められているのでしょうか。
それはあの十字架によってキリストはすべてをご自分に引き受けているからです。
罪の力、闇の力、悪魔の猛威もすべて引き付ける力があの十字架にはある。私たち自身の悩み、
罪、死の力もすべて十字架という一点に吸い込まれ飲み込まれて行きます。醜い権力、武力も。
そう見るとあの十字架ほど底力を秘めたものはありません。それに飲み込まれ、吸収されて、すべては終りというとどめを打たれます。
闇と罪と死はキリストの十字架によって支配権を奪われるのです。これこそまさによきおとずれ、福音です。
しかしキリストは十字架に終らず、「死者の中からの復活によって力」(1章4節)を表わし、
「救いをもたらす神の力」を示されました。キリストは引力とともに、闇を克服し、それを乗り越え、救い出す力、
新しく生きる力をも復活によって示し、私たちに与えてくださった。だからそれに与かる人をして、その人を通して、
たとえば、パウロが述べているように、「わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力」(15章19節)
を行使するのです。主の復活はあの時点だけの事件ではなく、その力に与る人の中に働き続けます。彼はその力に満たされて、
使徒として三回にわたる伝道旅行をなし、地中海世界に次々と教会を建てて行きました。その力のたくましさはまさに驚きです。
まさにダイナミックの一言に尽きます。主の復活は人を通して、その人の内に秘められながら大きな行動力となります。
人をして前へと駆り立てる力となります。人を生かします。
こういう引力と行動力がキリストにあります。それらの力をすべて引き継いでいるのがキリストを頭とする、
その体なる教会です。教会の内に、この力ある方が宿っています。この「神の力」を宿した教会が今日、
十分に自覚しなければならないのは、教会がもっている母性を生かすということです。宗教改革者のカルヴァンは教会を母と呼びました。
そして「われわれはこの母の胎内にみごもられ、この母から生みおとされ、この母のふところで育てられ、
ついに、この母の指導監督のもとに見守られて、最後に、死すべき肉を脱ぎ捨て、天使たちのようになるにいたるのでなければ、
生命に入る道はない」(「キリスト教要綱第4巻」)と美しく語ります。現代は甚だしく母性が失われているのではないでしょうか。
母の存在は希薄になりつつあります。母の愛情を込めた手料理はインスタント食品に代わり、手造りの衣服は既製服に代わり、
皆母親たちは手塩をかけて子を育てることを逃避しています。まるで「見ざる、聞かざる、言わざる」の状態です。
しかし教会に宿る神の力は母性として働き、人を力づけます。主は食卓の主として子たちを養われます。その力を発揮することこそ本教会のこの年の歩みです。