ルカによる福音書4章1〜13節
◆誘惑を受ける
(1)さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、
(2)四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(3)そこで、悪魔はイエスに言った。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(4)イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
(5)更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。
(6)そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。
(7)だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
(8)イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」(9)そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。
(10)というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
(11)また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
(12)イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。(13)悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
牧師 橋爪 忠夫
主イエスはヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊に引き回されて、荒野で悪魔の誘惑、ないしは試みを受けだということが、
この箇所に記されています。それが主が公の活動に入ってまっ先に経験したことでした。ところでこのような悪魔の誘惑や試み、
さらにそれは聖霊に引き回されて起ったことで、しかも荒涼たる死の世界である荒野を舞台とし、四十日にも及ぶ断食と記されていることを想像すると、
この経験は何か私たちの日常とはかけ離れた一つのドラマだと感じないでしょうか。確かにこの物語は興味深いけれども、
私たちの現実とは遠いものではないかと思うところがないでしょうか。しかしそうではなく、主イエスが経験した悪魔の試み、
悪魔との戦いこそ、結論的には私たちの日常の最も深い現実を浮き彫りにし、そこで主が戦っていて下さるのだということを、今から述べたいと思います。
まず主は「荒れ野の中」を「四十日間」、「何も食べず」に「悪魔からの誘惑」(1-2節)を受けられたとはどういう現実なのでしょうか。
旧約の申命記8章に、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、
あなたの、心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、
あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」(2〜3節)とあります。これがイスラエル(神の民
)が、本当に神の民になるために経験したことでした。奴隷となっていたエジプトを脱出後、あの荒れ野の四十年は神の民が生み出される
ための根底を築く経験でした。そうすると主イエスが公の活動に入ってまっ先に四十日の荒れ野で、何も食べず、試みにあわれたのは、
イスラエルの根底にある現実に自ら足を踏み入れたということにならないでしょうか。そこで人間の経験するあらゆること、
しかも極限状況に置かれた人間に、御自身が一つになったということです。それはまた広く言えば、この世界で人がこの世の大きな力や罪の力、
死の力から救い出されるためにはどうしても経なければならない道程です。
さらに主の受けた悪魔の誘惑は、ただこの場面だけの絵空事や現実から離れたエピソードではなく、主のご生涯を貫く現実でした。
ここには悪魔により主は三つの誘惑、挑戦を受けています。その一つ一つの挑戦に対して、主は聖書の御言葉をもって退けられました。
しかしその誘惑も、また主イエスの答えも、決してこの一時にとどまることなく、また単に言葉での戦いに終らず、それが現実となって展開するのが、
その公生涯の活動です。
ルカによる福音書は主の活動を大きくいって三部に分けた構成で述べています。ガリラヤ地方での伝道(4章14-9章50節)、
エルサレムヘの旅(9章51-19章27節)、エルサレムで(9章28-終り)です。この第一部の主題は、
ガリラヤ地方の貧しく、病に苦しむ民衆を相手にするものでした。そこにこだまするのは「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」
(3節)という誘惑です。つまり人々の求めに応じ、奇跡を起こして、その結果、何よりも御自分の欲望を満たすという誘いです。それに対して主は
「『人はパンだけで生きるものではない』」(申命記8章3節)と答えて、その試みを退けられました。それを具体化し、その頂点となるのが9章10節以下にある
「五つのパンと二匹の魚」の物語です。主はこれらで五千人の群衆の飢えを満たされました。そのクライマックスが「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、
それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した」(16-17節)
という光景です。「人はパンだけで生きるものではない」というのはこの光景につながり、さらに十字架の死と復活後に設けられた
聖餐によって人々が養われるという現実につながって行くのであります。悪魔の誘惑とは、そのようなつながりをさえぎり、
時的な個人的欲望の充足で事足れりとすること、神との関わりを遮断することです。
第二部の「エルザレムヘの旅」のテーマは一口に言えば、悪魔が一瞬のうちに世界の国々の反映を主に見せて、
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。…もしわたしを拝むなら」(5-7節)という挑みです。
つまり主イエスがいかなる意味で救い主(メシア)になり、そのもたらす国はいかなる国かということ、救い主像とその国に深く関係します。
そして悪魔は主を単にこの世の王者となることを策謀しています。主はこの挑戦に対して「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」
(申命記6章13-14節)と答えられました。ルカ福音書の第二の部分は主がもたらす国が具体的にどうであるかを示すたとえ話を多く語っています。
そしてその頂点にあるのが御自分の救い主像を弟子に三度目に語る場面です。「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。
『今、わたしたちはエルサレムヘ上って行く。人の子(暗示的に「救い主」)について預言者が書いたことはみな実現する。
…彼は人の子を鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する』」(18章31-53節)これが「ただ主(神)に仕えた」主の答えです。
第三部はエルサレムを舞台にした主の受難の中で悪魔の「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9節)
という聖書の引用(詩編91篇12-13節)を伴った誘いかけです。それに対して、
主の「『あなたの神である主を試してはならない』」(申命記6章16節を底流にして展開されていると見ることができます。
この「飛び降りたらどうだ」という悪魔の誘いは十字架にかけられた主に「もし神からのメシアなら、自分を救うがよい」(23章32節以下)
という人.々の異一同音の叫びになって響きわたりました。その中で主は一途に私たちの救いのために十字架から飛び降りることなく、み業を全うされました。
悪魔の誘惑と戦いは私たちとかけ離れた絵空事ではありません。否むしろ、私たちの日常の最も深くにある現実で、
そのために主が身を投げ出して戦った紛れもない現実です。その戦いを日々覚える信仰生活を続けましょう。