説教 「今日」という初め

ルカによる福音書4章16〜21節

◆ナザレで受け入れられない
(16)イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。(17)預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
(18)「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、
主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、

(19)主の恵みの年を告げるためである。」
(20)イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。(21)そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。



牧師 橋爪忠夫

 ルカによる福音書の1章の初めには興味深い「献呈の言葉」があります。これは当時のローマ帝国の時代の文筆家のスタイルを借りていると言われています。そこに「敬愛するテオフィロ(固有名詞とも、また訳すと神を愛するの意)さま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」(3〜4節)とあります。
 ここからわかることは、この福音書は、主イエスの福音を記すに当って、物事の順序に特別な関心を払っているということです。それによって、これを読む人が、すでに知っていることを確実なものにしてもらいたいと願っているということです。これは私たちが普段、即座には理解できないことを正しく知って、理解するときにもあてはまることではないでしょうか。物事が起きて目に見えて来るまでにどういう経過や順序があったのか、どういう理由に由来するのか、そのことを順序正しく知ることによって、人のもつ偏見や独断、そして先入観が排されて、物事に即した認識が可能となり、そして確信が生まれて来ます。主イエスの福音が私たちにもたらされる場合にも、それが当てはまります。どうしても順序が重んじられなければなりません。そしてそれによって確実なものにしなければなりません。

 それでは福音書記者ルカが順序正しく、ということで、何がその順序の最初に来るのでしょうか。それは結論的に言えば「礼拝」です。ルカはこの1章の献呈の言葉に続いて、福音書の物語の最初に記しているのは、エルサレムの神殿で、やがて生まれる洗礼者ヨハネの父ザカリアが祭司として神殿で礼拝をし、香をたいているところです。これは聖所の深奥での祭司による礼拝です。これがこの福音書の最初です。
 今日読みました四章も、主イエスがお育ちになったガリラヤのナザレの場面ですが、すでに主はガリラヤ地方で活動していて、その名は知れわたっていました。しかし、その最初に記されている印象深い出来事は、ナザレの会堂での礼拝でのことです。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものように安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』」(16〜19節、イザヤ61章1〜2節)と。そして主イエスが巻物を返して席に座られると、会堂にいる人々の目が一斉に主に注がれました。そこで主の決定的な言葉が発せられました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)という言葉です。これは原文に忠実に言えば「今日」が最先に口われていて、明らかに「今日」に強調があります。これを聞いた人々の間から起ったのが主をほめ、その恵み深い言葉への驚きでした。この「今日」とは人々にとって、今まで聞くとは全く違った「今日」でした。それまでの今日とは違う、新しい初めとなるような「今日」でした。なぜなら「聖書の言葉が実現した」という今日だからです。
 このルカ福音書では主イエスの公けの活動の舞台を三つに分けて記していることはすでに述べました。ガリラヤ地方での伝道(4章14〜9章50節)、エルサレムヘの旅(9章51〜19章27節)、エルサレムで(19章28〜終り)です。この第二場のほぼ終りのところには徴税人ザアカイ(19章1節以下)の話がでてきます。主はいちじく桑の木に登って、主を一目見ようとした彼に近づき、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と声を掛け、それに答えた彼に向って、「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)と宣言されました。これは彼にとって、今までの罪深い生活を断ち切り、新しい歩みを始める最初となる「今日」でした。
 第三場のエルサレム郊外の「されこうべ」と呼ばれる丘の上での主の十字架の場面(23章32節以下)を思い起しましょう。主は二人の犯罪人にはさまれて、断末魔の苦しみの中で彼らと言葉のやり取りをされました。一方の犯罪人の捨てぜりふのような中傷に対して、他方の犯罪人は「この方は何も悪いことをしていない」、そして、「イエスよ、あなたの郷国においでになるときには、わたしを思い出してください」(41〜42節)と告白し、訴えました。すると主は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言われました。この「今日」も全く新しい今日です。主と共に楽園にいる今日なのですから。それが彼にとって初めとなる新しい今日なのです。このようにルカ福音書が、それぞれの舞台の要所で「今日」を強調するのは、そこに順序の初めとなるべき、全く新しい初めがあることを力説したいからです。それが恵みとして与えられていることを述べたいからです。

 それではなぜ、「今日」がそれまでのそれぞれの人の歩み、しかも神を忘れた罪深い歩みを清算して、全く新しい初めとしての今日となるのでしょうか。その今日とはどういう内容をもっているのでしょうか。それは主がナザレの会堂で宣言されたように「聖書の言葉が実現した」からです。聖書の言葉の実現とは主イエスの全生涯を貫くテーマです。ガリラヤで、エルサレムに向う旅で、そしてエルサレムを貫くテーマです。そこでなされた主のみ業のすべてが、今日という日の内容です。私たちは、その今日という日に含まれた内容を、私たちのために歩んでくださった主イエスのすべての救いの業を今日、恵みとして与えられます。それを私たちの歩みの最初としておくられるのです。まず私たちの救いのために聖書の言葉を実現して下さった歩みがあり、それに続いて、私たちの歩みはそれを受けて今日から始められるのです。それが今日という初めです。そのような内容を含んだ全く新しい「今日」は礼拝において実現し、そこにおいて恵みとして私たちに与えられるのが福音です。