説教 エルサレム入城
ルカによる福音書19章28〜46節
◆エルサレムに迎えられる
(28)イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。(29)そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、(30)言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」(32)使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。(33)ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。(34)二人は、「主がお入り用なのです」と言った。(35)そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。(36)イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
(37)イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
(38)「主の名によって来られる方、王に、
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光。」
(39)すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。(40)イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
(41)エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、(42)言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。(43)やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、(44)お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
◆神殿から商人を追い出す
(45)それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、(46)彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
牧師 橋爪 忠夫
主イエスはオリーブ山からキドロンの谷へと.下る坂道を通って、エルサレムに入城しようとしていました。その時、期せずして弟子たちの中からわきあがったのが歓呼の声でした。彼らはろばの背に乗った主イエスの通り道に、自分の服を敷き、あるいは棕櫚の木の枝を打ち振り、こう叫びました。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」(38節)と。
この来るべき王に向けられたわきあがる祝福と歓呼の声を主イエスは退けません。それどころか、その声を抑えようとしたファリサイ派の人々に対して主は「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(39、40節)と答えました。明らかにこれは、主がご自分に向けられた祝福を肯定しておられたことを表わしています。しかし、このエルサレム入城は、歓呼と祝福一色であったのではありません。入城する道すがら主の目には涙が浮んでいました。
「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前に見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう」(41〜44節)。これは都エルサレムがやがて滅びるべき運命にあることを表わした不吉な予言です。この言葉を文字通り読めば、エルサレムはやがて跡形なく壊滅するだろうという恐ろしい予言です。
一方の、エルサレムの王として来られる方に向けられた祝福と歓呼の声、しかし他方、主の口から出たこの都の不吉な滅びの予言とのこの二つは、どうしても簡単には結びつきません。大きな隔たりがあり、全く相反することが同時に語られているとしか言いようがありません。この二つは平板にはつながりません。
このような祝福と.不言な予言が同時に語られる場面がルカ福音書の2章25節以下にもあります。主イエスの両親が生れて一ヶ月ばかりを経た初子である主イエスをエルサレムの神殿へ連れて行き、律法に定められた犠牲を献げるときのことでした。シメオンという老人が、その幼子を見つけ、この子を腕に抱き、神をたたえて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見だからです」(28〜29節)という有名な救い主の到来を祝福する讃歌を語ります。しかしその直後に母マリアに向って、このような無気味な予言が語られています。「あなた自身も剣で、心を刺し貫かれます」(35節)と。これはやがて母マリアがその子イエスの十字架の死のゆえに、たとえようもない悲しみに胸を刺し貫かれるであろうという予言です。それはどう見ても祝福ではありません。この幼子の将来を語る不吉な予言です。そしてそれはその言葉のとおり実現しました。
このように一方では主に向ってこれ以上ないほどの祝福が叫ばれ、しかし他方で恐ろしいほどの不吉な予一口が語られるという矛盾は何を物語るのでしょうか。そこには埋めがたいほどの大きな溝が横たわっていると言ってもよいのではないでしょうか。その二つはどのように結びつくのでしょうか。
多くの人々はこの祝福と不吉な悲劇との間をこのように結びつけます。それは祝福は結局は悲劇によって裏切られ、終るのだと。それは人間の歴史や経験に照らしても一面をついている真理なのかもしれません。それは祝福から悲劇への下降に真実を見る見方です。多くの悲観的な物の見方はそれにうなずきます。あたかも主イエスのエルサレム入城にたどったオリーブ山からキドロンの谷間へ下る坂道にしか真実を見ようとしない見方がそれです。
あるいは宗教改革者のカルヴァンは人間の生れながらにもっている原罪を指摘するときに、「人は生れつき神と人とを憎む傾向をもっている」と言いました。人間は生れながらに傾きをもっている、そのままではいつでも祝福から罪の悲劇に落ち込んでしまうどうしようもない傾きがあります。それも真実です。
しかし主イエスはキドロンの谷間から坂を上り、エルサレムに入城し、王として祝福されたことも依然として真理です.確かにそこに悲劇が待っていました。あの苦しみの末に赴かれた十字架の死です。しかしそれでは終りません。主は十字架につけられた後、三日目に復活されて、エルサレムばかりか世界のまことの王として祝福を受けられました。決して単なる悲劇に終ったのではありません。
主イエスがエルサレム入城に際して受けられた王としての祝福とそれに矛盾するかのような悲劇の予言の二つは、どちらも真実なものです。それは単に相反する矛盾や人間的にその二つを結びつけるのではなく、むしろ主の歩まれた道の高さ、深さ、長さを示すのではないでしょうか。主は人の悲劇の谷底の深みを知り、歩まれ、またこの上ない天高くまでも歩まれた、それは一方は天頂に達し、他方は地底深くに達していたのではないでしょうか。そのような広い世界こそ主が歩み、ご自分を人の救いのために投げ出された広大な世界と言うべきではないでしょうか。
私たちは使徒信条が唱える主の生涯を改めて復唱しなければなりません。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と。
この主イエスの道のりをたどるときに、どんな悲劇も困難も、また罪も死も、主の歩みを通して祝福へと橋渡され、結びつけられる道があるのだということを信じてよいと示されます。そしてそこに与えられる祝福は決して壊れやすいものではないことを信じさせられます。