説教
ひと言おっしゃってください
ルカによる福音書7章1〜10節
◆百人隊長の僕をいやす
7
(1)イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。(2)ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。(3)イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。
(4)長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。(5)わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」(6)そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。(7)ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。(8)わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(9)イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(10)使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
牧師 橋爪 忠夫
これは主イエスが、ガリラヤ湖に臨むカファルナウムという町で、ある百人隊長とふれ合うことになった印象深い物語です。この物語で注目したいことは9節以下にありますように、「イエスはこれ〔百人隊長の言葉〕を聞いて感心し」た。つまり主イエスはこの百人隊長の言葉に非常に驚き、大いに打たれたことです。そして「従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」とおっしゃった。主イエスがこの百人隊長のどこに打たれ感心したかといいますと、それは「信仰」であります。神に対し、また主イエスに対する揺るぐことのない信頼です。その信仰は、主イエスをして「わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言わしめるほどのものでした。
私たちは普段、福音書の物語を読んでいて印象に残るのは、多くの場合は主イエスが神のみ子として人々に行われた力ある不思議な業、あるいは当時の宗教的権威であった律法学者、ファリサイ派の人々も及ばぬほどの知恵ある言葉であります。主を取り巻く多くの人々はそれに率直に驚き、感心して神をほめたたえたのです。多くの場合は、人々が主イエスに対して驚き感、心するばかりでありますが、しかしこの場合はその逆でありまして、神のみ子である主がひとりの人間に驚いた、心打たれ、感心し、これほどの信仰を見たことがないとまで、ほめられるのであります。これは驚きであると同時に、神がみ子をとおして、私たちに何をよしとし、何を期待し、また何を喜んでくださるかをはっきりと示すような物語であります。単に例外的な物語ではなく、私たちを勇気づける物語ではないでしょうか。
主イエスの「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」というお言葉から察しますと、主の感動の要素のひとつは、神に恵まれ、神を信じてよいはずの神の民イスラエルに主が期待していたものが、イスラエル以外のところに見出された。言い換えますと、神に対する信仰とは縁遠いと思われていた世界に、意外にもイスラエル以上の信仰が見出されたという驚きであります。確かにイスラエルの人々は幼少期から律法を学び、神への信仰を養われていました。しかしこの百人隊長がいた世界というのはどういう世界でしょうか。彼は兵隊であります。軍務についています。百人隊長ですから百人ほどの兵を率いて、さらにその上の上官に仕える身でありました。少し当時のことを調べてみますと、カファルナウムを治めていたのはイドマヤ人の血をひくヘロデ・アンティパスという領主であり、従ってこの百人隊長はその征服者の占領軍の下士官ということになります。自分とは違う民族の中にあって、その民族を軍事力で治めるという立場にあった人です。こういう環境に置かれた場合、ともすると陥りやすいのはその身分や階級が絶対であり、また被征服民に対しては、人間的な感情を拒み、冷酷な対応に終始するということではないでしょうか。しかしこの百人隊長にはそういうところが見受けられませんでした。主イエスはこの百人隊長の素晴しさをその「信仰」と言われましたが、その本質的な信仰から溢れ出る何かがこの百人隊長にはありました。すでに彼の中に芽ばえていた信仰が彼の兵隊の中においての人間の見方や被征服民であるイスラエルに対する姿勢を変えていたことが次の二つによってうかがわれます。
一つは彼の部下に対する態度でそのことがわかります。「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちに使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ」(2〜3節)とあります。当時の様子を考えるとこれは決して当り前のことではありません。彼は自分の部下の生命を惜しんで、自分のある意味で敵であるユダヤ人をとおして主イエスの助けを請うたのであります。それは大変に勇気のいることでした。百人隊長は軍隊身分を越えて、その部下を人として慈しんだのであります。
もうひとつはこの要請を受けた長老たちは主イエスのもとに来て、こう熱心に願ったとあります。「あの方は、そうしていただくにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4〜5節)と。彼は自分の下にあるユダヤ人が最も大事にしている神に対する信仰について聞く耳をもっていました。会堂とはユダヤ人たちが律法を学び、それによって彼らの精神を養う拠り所でありました。それを自ら進んで建てるとは、当時では思いもよらないことであったでしょう。
これらは百人隊長がいかにその信仰によって視野を広げられ、己れの軍人としての身分からいかに自由であったかを示しています。
けれどもこのような広い人間味に満ちた側面が主イエスを感心させたのではありません。そうではなくて、次のような言葉です。「『主よ、御足労には及びません。…わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。…」(6〜8節)。つまり、百人隊長は主イエスに「ひと言」を期待しました。それ以上でも以下でもありません。これに対して主はその信仰を賞賛したのです。それは信仰というものの本質を主イエスから見て、見事に言い表わしたものだったからです。それは端的に言えば、こういうことです。主が私たちに期待し、生み出そうとする信仰とは一重に神の言葉によるものだからです。
私たちは色々な意味で言葉を用います。しかし主イエスの言葉、神の言葉とは、単なる言葉ではなく、それは約束必ず実現する力をもつもの、物事を造り出すことのできるものです。彼は主イエスの言葉にそういう権威と力を認め信じていました。そして主イエスのご人格こそ、その言葉そのものなのです。このような信仰を私たちも与えられて歩みましょう。