説教 日用の糧を与えたまえ
ルカによる福音書11章1〜4節
◆祈るときには
11
(1)イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。(2)そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
(3)わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
(4)わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
牧師 橋爪 忠夫
今年の年間標語「福音は救いをもたらす神の力」のもとに「週日の信仰生活」を主題として、今日は教会全体修養会を開こうとしてします。このような「週日の信仰生活」という主題に焦点を合わせたのは、ここ何年かの全体修養会はどちらかというと聖日(日曜日)の礼拝に関するものが多かった、それでその礼拝と私たちの週日の信仰生活とはどうつながるのか、結びつくのかが当然問われなければならないと考えたからです。その場合に主イエスが日々に唱えることを教えてくださった「主の祈り」から考えてみることがよいのではないでしょうか。というのはこの祈りほど昔からキリスト者の日常の生活の中で唱えられ、一また日常の信仰生活を導いて来たものはないからです。この祈りには、そういう信仰の基本的な事柄に対する示唆が含まれているからです。
私は週日の信仰生活を考える場合に、この「主の祈り」の前半の三つのいわゆる神のための祈りの次に来る「我らの日用の糧を今日を与えたまえ」という項目に絞ってみたらよいのではないかと思いました。この祈りは私たちの週日の生活を代弁するような「日用の糧」という言葉があります。聖書の元の言葉では糧に当るのはパンという言葉です。私たちの生活はこのような食生活抜きには成り立ちません。しかも主の祈りの前半の神のための祈りに続く、私たちのための祈りの冒頭にこの祈りがあることに注意を払うことが有益ではないかと思います。というのは主の祈りを祈っていて「日用の糧」のくだりに移ると、「み名」や「み国」、「み心」と違って事柄が非常に具体的になっていて、一種の飛躍か落差に似たものを感じるのではないかということです。しかし同時に、にもかかわらずこの「日用の糧」を求める祈りは、主の祈りの中で祈られる祈りであって、前半の祈り、「み名」、「み国」、「み心」の祈りと深く結びついているはずではないかということです。この一見、飛躍ないし落差と、前半の三つの神のための祈りと「日用の糧」の祈りの結びつきに着目することが、ひいては礼拝と週日の信仰生活のつながりを考える上で光を与えてくれるのではないかと私は思います。
このルカによる福音書によると、この主の祈りは「弟子の一人がイエスに、『主よ、〔洗礼者〕ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」(11章1節)ゆえに与えられた祈りでした。つまりこれは弟子たちにして初めて祈れる祈りでした。エレミアスという学者が主の祈りを研究してこういうことを指摘しています。それは聖書が生れて間もない古代教会において、この祈りがどのような場面で祈られたかというと、礼拝の中の聖餐式の直前に祈られだということです。つまり主の祈りは聖餐式の一部であったということ、そして人々は洗礼を受けて始めて聖餐にあずかり、その際に初めて主の祈りを共に祈ることが許された。従って主の祈りを唱える特権は教会の受洗者に限られていたので、これはまた「信者の祈り」というように呼ばれた。当時は主の祈りは教会員にのみ与えられた教会の聖なる財産であって、人々はこの祈りに接するときに大いなる畏れをもったということです。ということは「日用の糧」を求める祈りは、文字通り日ごとの糧を祈ると同時に、「み名」をあがめ、「み国」の来ることを願い、「み心」のなることを求める礼拝の中のクライマックスである聖餐と深くつながっているということです。聖餐、つまり主の食卓で与えられる糧とも深くつながっているということです。
もう一つ私たちの主の祈りでは「日用」(日ごと)と訳している言葉は宗教改革者ルターによるものですが、本来はやや特殊な「エピウーシオス」という言葉です。もちろんルターの訳し方も当をえたものですが、この言葉には「明日の」という意味もあります。ここで言う明日とはあくまでも聖書が言う意味の明日であり「それは大いなる明日、つまり終りの日の神の国の完成を指すものです。神の国での食卓であずかる「天のマナ」「命のパン」であり、より具体的には主イエスが弟子たちのために裂かれたパン、この世のパンでありながらそれ以上のもの、すなわち主が多くの人々のために死によって与えられた命であり、主の死によるあがないの力によってあずからせて下さった永遠の命を意味します。それは決して、明日ということで今日のこの世の食物と区別され、対立させられるものではなく、むしろ今日この世の食物が主によってきよめられて、明日の新しい世界への命につらなって行くものです。このように日用の糧が明日につらなる世界に広がっていかねばなりません。アウグスチヌスという古代教父が「主の祈り」を解説して、主の祈り全体は私たちに明日への望みを養うと語っていることに耳を傾けなければなりません。
このように「我らに日用の糧を与えたまえ」という一節に焦点を合わせて、週日の信仰生活を考えて来ましたが、それではもっと具体的に私たちは礼拝につながる週日の信仰生活をどのように形造って行ったらよいのでしょうか。古来、教会はキリスト者の日常の生活を形造るために様々な工夫を重ねて来ました。それが教会暦や聖書日課です。それらは聖日の礼拝の日だけでなく、週日の日々も礼拝とつらなるために、主イエスの歩みを覚え、聖書のみ言葉を読み、祈りを絶やさぬための工夫でした。私たちもそのような教会の生み出して来た努力の大切さを思い起すべきでしょう。その中で私はプロテスタントの教会、特に改革教会やピューリタンの人々が大切にして来た週日の信仰生活の一つの形を思い出します。それは一口に言えば食卓の祈りです。有名な絵に林竹治郎が描いた「朝の祈り」があります。これは出品時の画題は「日々の力」だったそうですが、朝の光の差し込む明るい部屋で円卓を囲んで祈る母と子の姿を描いたものです。またオランダ系の改革派の信徒が好む「グレイス(朝の祈り)」と題される絵には一人の老人が食卓にパンと牛乳を置き、祈る姿が描かれているものがあります。いずれもその日ごとの食卓が主の食卓につらなり、その食事が神の国の食卓と連なり、日用の糧が大いなる明日の食卓につながることがよくわかります。そのような週日の信仰生活を大事にしたいと思います。