説教 老いとクリスマス

ルカによる福音書1章57〜80節
◆洗礼者ヨハネの誕生
(57)さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。(58)近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。(59)八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。(60)ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。(61)しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、(62)父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。(63)父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。(64)すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。(65)近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
(66)聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

◆ザカリアの預言
(67)父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。
(68)「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放し、
(69)我らのために救いの角を、
僕ダビデの家から起こされた。
(70)昔から聖なる預言者たちの口を通して
語られたとおりに。
(71)それは、我らの敵、
すべて我らを憎む者の手からの救い。
(72)主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
(73)これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。
こうして我らは、
(74)敵の手から救われ、
恐れなく主に仕える、
(75)生涯、主の御前に清く正しく。
(76)幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
(77)主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
(78)これは我らの神の憐れみの心による。
この憐れみによって、
高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、
(79)暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く。」
(80)幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。


説教 老いとクリスマス

ルカによる福音書1章57〜80節

牧師 橋爪忠夫

 やがてこの世にお生れになる救い主イエスの誕生の約半年前に、後に洗礼者と呼ばれるようになったヨハネが生れました。その時、しばらくの間、口の利けなかったザカリアの口から歌い出されたのが、「ザカリアの歌」(68〜70節)です。この歌の冒頭にある「ほめたたえよ」という言葉はラテン語では「ベネディクトゥス」という語で、この歌は古くから「ベネディクトゥス」と呼ばれて親しまれて来ました。この歌を有名な「マリアの賛歌」と比較しますと、その特徴は一目瞭然です。マリアの賛歌は今、神様が彼女にしてくださった御業を通して、力ある神を讃えていますが、ザカリアの歌は、イスラエルの歴史を回顧して神讃美をしています。
 「我らのために救いの角〔メシア〕を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。…主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い」(69〜73節)と。ダビデは当時からみると千年前のイスラエルの王者であり、アブラハムはさらに九百年を遡ったイスラエル民族の元祖となる人です。そのような先祖たちに神が語り、誓い約束された「聖なる契約」が神の憐みによって今成就しようとしていると歌っています。このヨハネの誕生と、さらに彼の後に現われる救い主の誕生により、彼は、自分も含め、これで先祖たちも祝福されるのだと歌っています。神の約束のもとに歩んだアブラハム以来のイスラエルの歴史が、このことを通して成就し、本当に祝福される、といってザカリアは神を讃えています。契約や約束のもとにあった歴史が、どんなに紆余曲折があったにせよ、とうとう約束実現の日の目を見るのだという感激にこの歌は溢れています。

 いったいこういう長い歴史を通して神の契約が実現するということを如実に、目に見えるように物語るにふさわしい人物とはどういう人でしょうか。私はそれは年をとった老人だと思います。深く刻まれた顔の皺、くぼんだ眼の底から、このような喜びは語られるにふさわしいのではないでしょうか。この当のザカリアは老人でした。彼の妻も年をとっていました。天使ガブリエルが妻エリザベトは洗礼者ヨハネを身ごもるだろうと告げたとき、ザカリアはこう疑いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)と。彼らは正真正銘の老人です。そこにみどり子が生れるという形で神の約束が実現したのです。このルカ福音書のクリスマス物語には意外に多くの老人が登場します。シメオンも、そしてアシェル族のファメエルの娘、アンナも当時として高齢の84歳と記されています。(2章26、29節、36、37節参照)クリスマスの周辺には老いたる人々も呼び集められています。クリスマスの喜びは一面から言うと、このような老いたる人々によって語られるものです。また老いたる人々が本当にこのクリスマスを待望していた、その実現は彼らの口から喜びをもって語られるものです。ここに「老いとクリスマス」の関係が明らかになります。それは広く言うと人間が経験する歳や歴史がどういう意味をもつのか、時を経ること、歴史を重ねることが信仰や神のみ心とどう関わるかを浮き彫りにします。

 私は最近強くこの老いと信仰の関連を感じます。それを問われたのは11月に出た本教会婦人余の「シャロン」102号です。この号の特集は「この教会で歳をとる」でした。この方面の牧会の上での関心は私の牧師としてのスタートからありました。1972年に有吉佐和子の「恍惚の人」という老いの醜さを扱った小説が出て世間に大きな反響を呼び起しました。その後、日本もまた日本の教会もアレヨアレヨという間に高齢化時代を迎えました。特に教会は昔からその関心をもっぱら青少年に向けていました。その目を大きく転じて、老いの問題を真剣に考えなければならなくなっています。私自身も目につくものを読んでいるつもりですが、本当に老いを信仰の課題として把え、説得力をもって語るものはあまりありません。むしろそれは今日突き出された大きな課題であるような気がします。これに真剣に私たちは取り組まなければなりません。私は教会学校で夏の分級の際に、年輩者を迎え、時代や信仰の証しをする機会をもっているのはとても良いプログラムだと思っています。それによって信仰やキリストの恵みが時代を越えたものだということが幼な子や若者たちに伝えられるからです。

 老いの意味を積極的に把える足場はどこにあるのでしょうか。それは神さまの「契約」や「約束」にあることを思い浮べるべきです。それは聖書を貫くものであり、私たちが養われている改革教会の最も大事な伝統です。具体的に一つ例を挙げれば、いわゆる幼児洗礼の根拠としてカルヴァンと改革教会は、自分では信仰的自覚をもてない幼児がどうして洗礼を受けるべきか、どうして神の恵みに与ることができるかを、この神の契約ということに根拠を置きました。神の約束は単に個人のみを対象とするのではなく、家族(幼な子を含んだ)を対象としているというのです。そして世代から世代に受け継がれるべきだと考えたからです。そうであるならば、かつて意識がはっきりし、主の前に信仰を表わした人が、どんなに衰えようと、また歳故にどんなに忘却が激しくとも、神がその人を選んだ契約は変わるはずがありません。そしてザカリアが歌っているようにそれは神の一方的な憐れみによるのです。
 人間が経験する時の流れには二つあります。自然的な流れは人を弱らせ衰えさせます。日本語の「時」が「トク」から来ているように、すべての命あるものを溶解し、滅ぼして行きます。しかし信仰者にとってその根本は神の契約です。時が流れることはその神の憐れみによる契約が層現実に近づくことです。老いの先にみどり子の命が与えられます。文字通り「エッサイの木の切株にひとつの若枝が育一つ」(イザヤ11章1節)のです。老いの先に命が約束され、キリストにお会いする道が用意されています。この福音を老いた方々共に感謝しましょう。