説教 キリストにあって一つの体、各自はその肢

コリントの信徒への手紙一 12章12〜31節
◆一つの体、多くの部分
(12)体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。(13)つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(14)体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。(15)足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。(16)耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。(17)もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。(18)そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。(19)すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。(20)だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。(21)目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。(22)それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(23)わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。(24)見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。(25)それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。(26)一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(27)あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(28)神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。(29)皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。(30)皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。(31)あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

◆愛
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。


牧師 橋爪 忠夫

 私たちの教会は1930年に創立されて、今年で75周年になります。伝道開始はさらに7年前の1923年です。富士見町教会の洗足地域への開拓伝道として始められ、それを提唱し、促したのはその教会の植村正久牧師でした。植村先生は当時の日本キリスト教界の指導者であり、東京神学社(現・東京神学大学)の創立者でもあります。植村は教会による伝道に力を注ぎ、特に聖日礼拝の説教には大きな影響力がありました。彼はまた明治・大正時代の日本の精神界のリーダーの一人として幅広く活躍した人ですが、その言説は講壇の説教から決して離れることがなかったと言われています。彼は神の言葉によって当時の日本を動かそうとした人でした。
 私は日本の説教者の先輩としてこの植村に随分教えられました。ある説教などは、暗唱するぐらい何回も読みました。教えられた一つは、説教の導入部です。またそこから始まる全体のトーンです。それは一口に言えば「共感」、あるいは「同情」と言えるものです。彼は聖書に登場する人物、その最たる人はもちろん主イエスなのですが、それらの人々、また会衆に深い同情をもって説教をしています。もし今日与えられている使徒パウロの「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(27節)を中心とした言葉を、植村ならどのように語るのかと、私は考えました。彼はこう語るパウロ、その背後に生けるキリスト、そして父なる神が、人間の愚かで罪深いさまをも見放さずに、深い同情をもち、心動かされて語りかけているという趣を忘れることはないでしょう。
 そういう見方からすると、「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分だ」、あるいは今年の年間標語の「キリストにあって一つの体、各自はその肢」という言葉は、目を見張らせるものがあります。というのはキリストは、あなたがたを単に知っているとか、愛しているという程度ではなく、「あなたがたは私の一部なのだ」、「あなたと私とは一つの体なのだ」、もっと言えば「あなたがたこそ私なのだ」と仰っているからです。私たち人間の間で、本当にこう言える間柄ははたしてあるでしょうか。もし言えたとしても、それがどれほど確かであるかは誰も保証してくれません。しかし、神であるキリストがこう言われるのは全く大きな驚きです。キリストを受け入れた一人一人に、キリストはお前は目障りだとか、あなたはいない方がよいなどとは決して言われないのです。お互いはキリストのこの言葉によって、生かされ、互いに生かし合うことが大切なのです。

 フランスのメルシェという神学者が主イエスという方は「まったくご自分だけで、ご自分に限って、ご自分で完結しているような、そういう方ではないこと言っています。もはやキリストは私たちに対して同情や共感ということさえ及ばないものを語りかけて下さっています。これに感激し、感謝しないわけにはいかないでしょう。どんなに偉そうなことを言ったとしても、私たちは自分の足で立っているように言ったとしても、本当のところは、この恵みによって生かされているのです。それを見誤らないことが根本だと思います。従ってこのテキストにあるように、特に見劣りする肢々に対してそれを受け入れられるかどうかは、このキリストの恵みが本当かどうかの真偽を問うことになります。

 「あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分〔肢〕」という主の御言葉を空しくせず、本当に生かして行くためには、この手紙の宛先である当時のコリントの教会の様子を振り返り、また特にパウロが「体」ということを強調していることに注目しなければなりません。
 まずコリントの教会の様子ですが、それはパウロが言った深い一致とはほど遠いものでした。最初の一章にあるように、パウロ派、アポロ派、ケファ〔ペトロ派〕、そしてどういうわけかキリスト派に分裂していました。「キリストは幾つにも分けられてしまったのか」(13節)とパウロはコリントの教会の現状を深く嘆いています。そのような分裂に至る背景は種々に考えられますが、一つはコリントが異教の盛んなギリシア的気風濃厚な都市であったことにもよります。ここには世界各地から民族、文化、伝統の違う様々な人々が教会に集まっていました。教会が最も成り立ちにくい場所でした。コリントの教会の実体はまるで薄皮一枚でかろうじてつながっている体(てい)のものでした。しかし、この東京にある私たちの教会も、それは決して他人事ではないでしょう。全く違う背景や経歴、環境の人々が洗足教会に集まって来ているのですから。もし妙な自己主張をすれば、このコリントの教会と同じ様相になることは明らかです。しかし、それがそうならない、そのようにたとえ弱々しく見えてもそうならないのはどうしてかと占えば、このキリストの御言葉によります。それは単に言葉だけではありません。
 キリストは御体をもって.こ自分と私たちを、そして私たちの互いを一つに結びつけて下さいました。それが私たちの救いとなるのです。この「からだ」(ギリシア語では「ソーマ」)という言葉は、独特な響きと意味内容をもったものです。からだとは私たちの間でも決して一部や断片ではなく、全体を意味する、総合的なものです。そういう広がりのあるものです。それでは「キリストの体」とはどういうことなのでしょうか。大きく言って三つのことがあります。最初にキリストが私たちの救いとなられたのは、言葉だけではなく、すべては御体をもって示されたことです。主は御体をもって、人間としてお生れになりました。受肉です。その御生涯は御体を離れたものではなく、十字架の苦しみと死は御体をもっての私たちの罪に対する犠牲でした。そしてその罪と死とを打ち破って御体をもって復活されました。二つ目は、このキリストの御体に聖餐において主は「取って食べよ、これはわたしの体」であると仰いました。そして三つ目はその御体に与るものこそ「教会」だとされているからです。文字どおり一の体の肢として、手足となるこの一年の歩みを祈りましょう。