説教 絶えず祈れ
牧師 橋爪 忠夫
ルカによる福音書18章1節から8節
◆「やもめと裁判官」のたとえ
18
(1)イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(2)「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。
(3)ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。(4)裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。(5)しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」(6)それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。(7)まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。(8)言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」
読み続けておりますルカによる福音書の一つの特徴は、祈りについて勧めたり、あるいは主イエスの祈りの場面が多いということで、時にはルカ福音書は祈りの福音書と呼ばれることがあります。今日の箇所も「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えている箇所であります。その後に、人々に印象深く教えるために、譬えをお語りになっておられます。この主イエスのお勧めに従って、私たち自身を振り返ってみますと、率直に思いますことは、我々は祈るということを忘れているというだけでなく、絶えず祈るということを怠っている。絶えず、常に,たゆみなく、あるいはしつこいほど祈る、飽くことなく祈るということをしているかと反省させられるのではないでしょうか。そうであるなら、その原因はどこにあるのかと考えずにはいられません。その原因を、主イエスはここでご指摘になっていると思います。ここに「気を落とさずに」とありますが、私たちが祈りを忘れる理由は祈っても聞いてもらえないとあきらめることにあるのではないか。そこで主イエスが強調したいことは、私たちの祈りが絶えてしまう深い原因は、我々がお祈りをする相手である神様についての認識の不足があるということではないでしょうか。我々に絶えず、気落ちせずに祈ることを勧めている理由は,我々に祈りを求めておられるのは神様なのだということ、我々の必要からではないということではないでしょうか。その神様に対する信頼が、絶えず気落ちせず祈ることが出来る理由である、ということではないでしょうか。
絶えず祈ることから後退する理由はどこにあるのでしょうか。神様は全て知っておられる、だから改めて祈らなくてもいい。神様と私たちは以心伝心のような関係で、わざわざ声を上げて神様に求めなくても全ておわかりだと考えることもあるでしょう。あるいは、執拗に祈り求めるのは、ご迷惑ではないかという、国民性のような考えもあるかもしれません。
今日の箇所の譬えで,主イエスは直接祈りの話はしておられません。裁判官に取り合ってもらえないやもめの話であります。この裁判官は良い裁判官ではないようであります。「自分は神など畏れないし,人を人とも思わない」と豪語しておりますし、主イエスも「不正な裁判官」と烙印をおされています。多分この裁判官はもっぱら有力な者のために裁判を行っていたのでしょう。やもめは公正に扱ってもらえなかった。しかし、このやもめはどうせ自分なんか正しくは扱ってはもらえないだろうと、あきらめたりはしなかったのであります。裁判官がうるさいと思うほど、しつこく訴えたのであります。運命的な現状を覆そうとしたのであります。裁判官にとうとう「彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」と言わせるのであります。「さんざんな目に遭わせる」とは強い言葉でありまして、どんなに不正な裁判官でも,心折れ、裁判を変えることがあります。
主イエスは言われます「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」と。神様は決してほうっておかないのだ、むしろ繰り返し訴えてくることをお喜びになるとおっしゃっているのであります。そのように祈らなければいけないと言われるのです。
スコットランドのフォーサイスが「祈りの精神」という本の中で,この場面を引用しながら、粘り強い祈りを勧めております。神様は単純に御心が行われますようにという祈りをお喜びにならない。旧約の創世記32章23節以下で、ヤコブが主の使いと「祝福してくださるまでは離しません。」と格闘したとありますが、これは祈りの場面だと思います。そのような、こうして欲しいという意志的な、格闘的な祈りを神様は求めておられると言っています。単純にあきらめたり,卑屈になったりしない。こうも言っています。神様は我々が求めるものをすぐにお与えにならない。我々が本当に祈り求め,御心を動かすほどに祈り求めた時,お与えになる。その時まで待たれる。
また、粘り強く祈る、その祈りを通して、我々がだんだんに神の国の一員とされていく、そこに粘り強い不断の祈りを求める神の御心があるとも言っています。
レントの時をすごしておりますが、主イエスの祈りの姿に倣いながら,絶えず祈るものでありたいと願います。