説教 ぜひあなたの家に泊まりたい

伝道師 洪 コ憙


ルカによる福音書19章1節から10節

◆徴税人ザアカイ
19
(1)イエスはエリコに入り、町を通っておられた。(2)そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。(3)イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。(4)それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。(5)イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(6)ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(7)これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」(8)しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(9)イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。(10)人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」



エレミヤ書29章10節から14節

(10)主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。(11)わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(12)そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。(13)わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、(14)わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。


今日のテキストは、主イエスによる神の国の告知―誕生、宣教、主権的訪れ、エルサレムの十字架の死と復活―に神の力が働いていることを鮮やかに示し証言している。
著者ルカは、ザアカイについて三つの否定的な点、罪人、徴税人、金持ちであることを挙げている。しかしルカ福音書は、徴税人と罪人らをイエスの友として紹介し、主イエスの招きに直ちに応えて(15:1)イエスに従った人達として肯定的に述べてきた。彼らは神の国において「敬虔な信仰の模範」(18:13-14)として描かれる。しかし「金持ち」というのは、裕福であっても幸福でない人として非常に否定的に描かれてきた。
ザアカイは、「イエスが誰であるか」見ようとした(3節)が、背が低いのでできなかった。1世紀には、身体的要素はその人の内的性質と関連があると思われていたため、背が低いことは、偏狭さや貪欲さと受け取られた。すなわち当時は背が低いことは、軽蔑の対象だった。さらに群衆に遮られてイエスを見ることができなかった。しかし彼は、イエスを見るために桑の木に登った。
主イエスは上を見上げて、彼を見出す。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(5節)。彼の家に泊まらなければならないのは、神の意志であり、イエスの希望である。ザアカイは、急いで降りて来て、喜んでイエスを迎える。イエスの誕生のとき、ベツレヘムの誰も宿を提供しようとしなかったが、しかしザアカイは宿を提供した。
これを見た人達は皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。(7節)」群衆は、イエスを見ようとするザアカイの霊的な望みを妨害しただけでなく、ザアカイを探して救おうとする主イエスの努力、熱情をも妨げようとする。群衆は神の救いの業とそれに応答する人の敬虔さを非難する。現代の大衆文化は同様なことを行っている、と思わされる。
ザアカイは、立ち上がって自発的に公言した。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)。これは、悔い改めの誠実さ、生まれ変わったことの立証である。旧約聖書と洗礼者ヨハネは神の民のしるしの一つとして、公正な経済生活の実践を取り上げている。(3:10-14,12:33,18:22;出22:37;レビ5:24)
主イエスは言われる。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(9節)。ザアカイに起こった変化を保証して言われたのである。救い(いのちの変化、生き方の変化)はザアカイの家に宿をとるイエスによって、彼に実現した。ラクダが針の穴を通る奇跡が起こった!
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節)。「失われた」とは、破滅を意味しているのではなく、それはただ間違った位置にいる、ということである。人は神から離れている時失われている。その人が神の家族の一人として、その本来の位置に戻るなら、その人は見出されたことになる。
預言者エレミヤは、神の民であるイスラエルが失われた者であると告発する。けれども神は彼らを罰することを望まず、救いを決意していることを告げる。神の思いは神の民を祝福することである。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。…」(エレ29:11-14)。
「今日」という言葉は11回使われ、現実的救いを表すルカ福音書のキーワードの一つである。今日神は偉大な事を行われる、というルカの宣言する福音は我々の告白の言葉でもある。今日、我々は目を開いて、神は今尚、御国をもたらそうと働いておられ、我々には恵みの言葉が尚も語られ、我々は赦しを尚も経験することができることをしっかり見るべきである。神の国は、赦しと招きの言葉を聞き、それによって人生を変えていただけるという希望を堅持し、神の言葉に基づく新しい価値観をもって生きる事を決意する人が一人でもいるならば、その場で力を発揮する。
失われた者を探して救うために今日も働く神の情熱、主イエスの情熱は、エルサレムにおける主イエスの苦難、十字架において鮮やかに表れている。教会・キリスト者は、本質的にイエスの情熱・苦しみの業への参与という特権と義務を背負っている。主イエスは、私たちの家に宿をとることを願われる。イエスは一人の人間のために立ち止った。