説教 祝福の源となるために

南支区協力宣教師 キスト岡崎 さゆ里


創世記12章1節から3節

(1)主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
(2)わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
(3)あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」



ルカによる福音書24章44節から48節

(44)イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(45)そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、(46)言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。(47)また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、(48)あなたがたはこれらのことの証人となる。(49)わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


日本伝道の伸び悩みの理由の一つは、「信仰」が単なる人生観、つまり自分の心の中だけのことだととらえがちで非常に個人的に留まっているところにあります。しかし私たちの主イエス・キリストは、「私だけ」のためにこの世にいらして死なれたのでしょうか。神は、信仰の父祖アブラハムに語りかけました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める(12章2節)」。これはまるで、日本で祈りというと思いつくいわゆる「家内安全・商売繁盛」、つまりアブラハムという「個人」を祝福したかのようです。けれどもその祝福の目的は、彼が「祝福の源となるように」なのです。つまり「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」ためなのだと神は言われたのです。アブラハムという一人の人間が神との関係に入ったとき、そこが源となって、それを通して必ず全ての人が神との関係に入るという、壮大な救いの約束をなされたのです。その約束は子イサクへ(26章4節)孫ヤコブへ(28章14節)、そしてさらに今ここにいる私たちまでも引き継がれているのです。
そしてその約束が成就したのがまさに、イエス・キリストの十字架においてです。ルカ24章には「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」とあり「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とあります。福音とは、私たち人間の悔い改めと、それを神に赦していただけるということです。私たち自己中心の罪にまみれた人間には、他者の祝福のために心から祈ることが出来ません。けれどもイエス・キリストは、神の御子として私たちの規範となり、そしてさらに、十字架において究極の他者への愛を示し私たちの罪を贖ってくださった方です。キリストを信じるとは、その大いなる愛に感謝・感動して、主に従っていきたいと願うことです。そしてその歩みの中で自分よりも人のことを思えるように成長させていただき、そしてすべての人は「あなたによって」その祝福をまた知っていくのです。
「あなたによって」という言葉は、時に信じがたいかもしれません。現に、家族の中でも唯一のクリスチャンであるような場合。しかし、私たちの現実はどうあれ神の約束は遂行されます。昨年は日本プロテスタント伝道150年、記念すべき年でした。神の約束が廃れない、ということを祝ったのです。当時来日した一番最初の宣教師6人の内、3人が私とエイブラハムを今送り出しているアメリカ改革派教会から派遣されていました。150年後の今、この私はその日本から初めてアジア人女性としてアメリカ改革派教会に牧師按手されて宣教師としてここにおります。けれども自分を振り返りますと、昔の私がいかに信仰を小さくとらえていたかを思わされます。イエス様は私の心の中にいるのだから教会には行かなくていいと思っていたり、何の使命感もなく自分のためにだけ神学校に留学したり。驚きと共に、神の約束はこちらがどうあれ必ず遂行されていくということのしるしなのだと思います。必ずや神様のお決めになった方法で私たちを用いられ、すべての人が祝福に入ることを成し遂げるのです。
信仰は個人のものではありません。本日私たちが聖餐を守るとき、それは一人で一つのカップを取ることではなく、世界中の信徒が心を合わせてキリストにあってひとつであることを確認するのです。本日の祝祷の詩編67篇の御言葉では「神がわたしたちを憐れみ、祝福し・・・」と祈ります。その次の節が大事です。「あなた(神)の道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」なのです。もっともっと神の約束を信じて、私たち一人一人が神との関係に入り祝福を受けたことから、まさにすべての人が神の救いを知り、すべての民が祝福を受ける喜ばしいときが必ず来ると、それを信じてますます伝道のわざに希望を持っていきましょう。「エルサレムから始めて」、という主の言葉それはすなわち「洗足教会から始めて」です。主の御座のある、主の御言葉の語られる、この教会から始めて私たちは主の証人として外へ飛び出していくのです。