説教 主の憐れみを知る
牧師 洪 コ憙
マタイによる福音書9章9〜13節
◆マタイを弟子にする
(9)イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(10)イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。(11)ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。(12)イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。(13)『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
2012年という賜物が私たちに与えられ、私たちは今、主の恵みに応答して新年礼拝を守っています。
今年の年間標語は、「主の憐れみを知る」(マタイ9:9-13)であります。教会は、2000年間、主の憐れみを賛歌にして歌っています。「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみたまえ)。
憐れみとは、他者の不幸な状況に共感する感受性、一時的な感情にとどまらず自己放棄を伴う自発的な愛の行為です。それは神の本質に由来し(出34:6、詩103:8)、契約に基づく神の怒りや裁きを補完し、正義を実現するものであります。憐れみ深い心は神が人間の側にも求める資質で(ホセア6:6)あり、困窮者支援の社会活動の根底にある理念・源泉はキリストの愛の規範にある(一ペテロ1:3;テト3:5)のであります。
本日の聖書箇所を平行記事のマルコ2:13-17、ルカ5:27-32と比較してみますと、一つ大きな相違があります。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13上)というのは、唯一マタイの記録にのみあるということです。そのことは、この箇所がテキストを理解するうえで重要な役割をしているのだということを示唆しているということです。ホセアは神に立ち帰ることと神を知り体験し認めることを勧告しました。マタイによれば、イエスと彼の弟子たちの食事が、預言者ホセアの言葉の成就であります。ホセア預言者の勧告は、神に立ち帰り主を知ること、それは、主なる神との契約に忠実であることでした。
さらに13節は、隣人愛を律法の本来的成就と見なすマタイによる福音書の主題に対応しています。それ故に、主の憐れみを強調する発言は、神の意志―罪人を憐れみ罪人の友として御子を遣わされた―がそこにおいて行われる終末時の神礼拝を、強調しています。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(13)というイエスの宣言が続いています。ここで、「招く」とは、客を家に招くか食事に「招待する」時に用いる特別な用語です(22:1-10)。イエスの食卓の交わりは、現に実現している不可視的救いを、食事という友情と愛との形で現す重要な行為です。食事において食べ物は、救い主イエスが地上において招きに応える罪人に与える救いを象徴的に示して見せるものなのです。
イエスの使命の重要な部分は、メシアの晩餐会に罪人たちを招待することなのです。彼らは価値があるから招待されるというのではなく、神がその恩恵において彼らを含めたいと思われるからこそ主イエスは彼らを招待されるのです。
「当時」の徴税人は、詐欺師や殺人犯とほとんど変わりないものとして、忌み嫌われていたのです。ではどうして主イエスは、宗教共同体から忌み嫌われているような人たちと共に、食事に与るのだろうか。イエスは、単に徴税人や罪人たちの友であるというだけではなくて、彼らが自分たちの病気を認知することができるかどうかはともかく、彼らの医者であるということです。魂の医者、主イエスは、ご自分の方から患者を呼び、患者のところに来てくださるのです。主イエスは、今もなお私のところに来てくださる神・救い主であります。
「主の憐れみを知る」ということを黙想すると、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける」(5:7)という言葉が心に響いてくます。
神の憐れみが、人となられた神の独り子、イエス・キリストとなって私たちのところに降りて来ました。キリストが人となられて以来、神の憐れみが地上の領域の中に入ってきました。それは、人々が今やそれに到達することができるほどに「親しいもの、近いもの」となりました。そしてそれは、憐れみ深い人を生み出しています。
憐れみ深い人は、キリストの憐れみを受けた人たち・教会を指しています。教会が神の憐れみを受けることは、礼拝において神の奉仕である赦しの福音の告知を聴き、神の憐れみのみによって生きる者として新たにされることです。そして憐れみ無き世界・憐れみを知らない世界に憐れみ深い人として遣わされるのです。そして神の憐れみを行うという、奉仕する者として遣わされることになります。
教会は、受け取った救いの知らせという憐れみ・恵みを自分一人のために黙っておかず他の人々に語り伝える人たちです。神の憐れみの証人、主の憐れみを隠しておかないで、さらに他の人々にそれを手渡していく人たちのことです。
憐れみを行うことは、奉仕すること・証しすることです!その様な意味において教会は、二つの奉仕―「言葉による証し」と「行いによる証し」―に生きる、奉仕する群れの共同体です。「罪人を招くために来たのです」と宣告する主イエスは、十字架の死において、主の憐れみの深さと広さと高さと長さを見える形で示されました。憐れみ深い人を生み出す福音を聴き、憐れみ深い人を生み出す福音の告知する者として、キリストにならう一年を送ることを志しましょう。