悪魔の誘惑との戦い

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主イエスはヨルダン川で、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、聖霊に引き回されて、荒野で悪魔の誘惑、ないしは試みを受けだということが、 この箇所()に記されています。それが主が公の活動に入ってまっ先に経験したことでした。ところでこのような悪魔の誘惑や試み、 さらにそれは聖霊に引き回されて起ったことで、しかも荒涼たる死の世界である荒野を舞台とし、四十日にも及ぶ断食と記されていることを想像すると、 この経験は何か私たちの日常とはかけ離れた一つのドラマだと感じないでしょうか。確かにこの物語は興味深いけれども、 私たちの現実とは遠いものではないかと思うところがないでしょうか。しかしそうではなく、主イエスが経験した悪魔の試み、 悪魔との戦いこそ、結論的には私たちの日常の最も深い現実を浮き彫りにし、そこで主が戦っていて下さるのだということを、今から述べたいと思います。

 まず主は「荒れ野の中」を「四十日間」、「何も食べず」に「悪魔からの誘惑」(1-2節)を受けられたとはどういう現実なのでしょうか。 旧約の申命記8章に、「
あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、 あなたの、心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、 あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた」(2〜3節)とあります。これがイスラエル(神の民 )が、本当に神の民になるために経験したことでした。奴隷となっていたエジプトを脱出後、あの荒れ野の四十年は神の民が生み出される ための根底を築く経験でした。そうすると主イエスが公の活動に入ってまっ先に四十日の荒れ野で、何も食べず、試みにあわれたのは、 イスラエルの根底にある現実に自ら足を踏み入れたということにならないでしょうか。そこで人間の経験するあらゆること、 しかも極限状況に置かれた人間に、御自身が一つになったということです。それはまた広く言えば、この世界で人がこの世の大きな力や罪の力、 死の力から救い出されるためにはどうしても経なければならない道程です。

 さらに
主の受けた悪魔の誘惑は、ただこの場面だけの絵空事や現実から離れたエピソードではなく、主のご生涯を貫く現実でした。 ここには悪魔により主は三つの誘惑、挑戦を受けています。その一つ一つの挑戦に対して、主は聖書の御言葉をもって退けられました。 しかしその誘惑も、また主イエスの答えも、決してこの一時にとどまることなく、また単に言葉での戦いに終らず、それが現実となって展開するのが、 その公生涯の活動です。

 ルカによる福音書は主の活動を大きくいって三部に分けた構成で述べています。ガリラヤ地方での伝道(4章14-9章50節)、 エルサレムヘの旅(9章51-19章27節)、エルサレムで(9章28-終り)です。この第一部の主題は、 ガリラヤ地方の貧しく、病に苦しむ民衆を相手にするものでした。そこにこだまするのは「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」 (3節)という誘惑です。つまり人々の求めに応じ、奇跡を起こして、その結果、何よりも御自分の欲望を満たすという誘いです。それに対して主は 「『
人はパンだけで生きるものではない』」(申命記8章3節)と答えて、その試みを退けられました。それを具体化し、その頂点となるのが9章10節以下にある 「五つのパンと二匹の魚」の物語です。主はこれらで五千人の群衆の飢えを満たされました。そのクライマックスが「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、 それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した」(16-17節) という光景です。「人はパンだけで生きるものではない」というのはこの光景につながり、さらに十字架の死と復活後に設けられた 聖餐によって人々が養われるという現実につながって行くのであります。悪魔の誘惑とは、そのようなつながりをさえぎり、 一時的な個人的欲望の充足で事足れりとすること、神との関わりを遮断することです。

 第二部の「エルザレムヘの旅」のテーマは一口に言えば、悪魔が一瞬のうちに世界の国々の反映を主に見せて、 「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。…もしわたしを拝むなら」(5-7節)という挑みです。 つまり主イエスがいかなる意味で救い主(メシア)になり、そのもたらす国はいかなる国かということ、救い主像とその国に深く関係します。 そして悪魔は主を単にこの世の王者となることを策謀しています。主はこの挑戦に対して「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』」 (申命記6章13-14節)と答えられました。ルカ福音書の第二の部分は主がもたらす国が具体的にどうであるかを示すたとえ話を多く語っています。 そしてその頂点にあるのが御自分の救い主像を弟子に三度目に語る場面です。「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。 『今、わたしたちはエルサレムヘ上って行く。人の子(暗示的に「救い主」)について預言者が書いたことはみな実現する。 …彼は人の子を鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する』」(18章31-53節)これが「ただ主(神)に仕えた」主の答えです。

   第三部はエルサレムを舞台にした主の受難の中で悪魔の「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9節) という聖書の引用(詩編91篇12-13節)を伴った誘いかけです。それに対して、 主の「『あなたの神である主を試してはならない』」(申命記6章16節を底流にして展開されていると見ることができます。 この「飛び降りたらどうだ」という悪魔の誘いは十字架にかけられた主に「もし神からのメシアなら、自分を救うがよい」(23章32節以下) という人.々の異一同音の叫びになって響きわたりました。
その中で主は一途に私たちの救いのために十字架から飛び降りることなく、み業を全うされました。

 
悪魔の誘惑と戦いは私たちとかけ離れた絵空事ではありません。否むしろ、私たちの日常の最も深くにある現実で、 そのために主が身を投げ出して戦った紛れもない現実です。その戦いを日々覚える信仰生活を続けましょう。  

(洗足教会月報「せんぞく」2004年第2号巻頭説教
「 悪魔の誘惑との戦い」 橋爪忠夫牧師より)

 

ルカによる福音書4章1〜13節 <もどる

 ◆誘惑を受ける
(1)さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、 (2)四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(3)そこで、悪魔はイエスに言った。 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(4)イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 (5)更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。 (6)そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 (7)だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」
(8)イエスはお答えになった。
「『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」(9)そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 (10)というのは、こう書いてあるからだ。
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
(11)また、
『あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える。』」
(12)イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。(13)悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

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申命記6章 

(4)聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。(5)あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
(6)今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、(7)子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。(8)更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、(9)あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
(10)あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、(11)自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、(12)あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。(13)あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。(14)他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。(15)あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。 〈戻る

◆主の命令を守ること
(16)あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。(17)あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、(18)主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、(19)主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。
(20)将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、(21)あなたの子にこう答えなさい。
「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。
(22)主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、(23)我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。(24)主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにしてくださった。(25)我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」
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申命記8章
(1)今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。 (2)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。(3)主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(4)この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。(5)あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。(6)あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。(7)あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、(8)小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。(9)不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。(10)あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。

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 詩編91篇
(1)いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ (2)主に申し上げよ 「わたしの避けどころ、砦 わたしの神、依り頼む方」と。 (3)神はあなたを救い出してくださる 仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。 (4)神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。 神のまことは大盾、小盾。 (5)夜、脅かすものをも 昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。 (6)暗黒の中を行く疫病も 真昼に襲う病魔も (7)あなたの傍らに一千の人 あなたの右に一万の人が倒れるときすら あなたを襲うことはない。 (8)あなたの目が、それを眺めるのみ。 神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。 (9)あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。 (10)あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。 (11)主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。 (12)彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。 (13)あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く。 (14)「彼はわたしを慕う者だから 彼を災いから逃れさせよう。 わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。 (15)彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え 苦難の襲うとき、彼と共にいて助け 彼に名誉を与えよう。

(16)生涯、彼を満ち足らせ わたしの救いを彼に見せよう。」

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