教会の最初の一歩 

 

使徒言行録2章41〜47節

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。


 

この聖書のテキストは、ペンテコステの日に誕生した直後の教会の第一歩ともいうべきものを記しています。その様子を表わしているのが、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)という言葉です。また、その歩みをもう少し広げて述べたのが「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」(46節)です。これが後に世界に広がり、今私たちが属している教会の最初の一歩の様子です。

 それにしても、その前のぺトロの大演説(14〜39節)と比べても、いささか物足りないと感じられるほど簡潔な書さ方ではないでしょうか。しかもこの「使徒の教え、相互の交わり、バンを裂くこと、祈ること」とは多くの人々が指摘するように、最初の教会の「礼拝」です。いわば礼拝の源や原形となるものです。教会が長い歴史を重ねて行くと、そのかなめである礼拝の内容や様式も複雑になり、発展すると同時にどうしても源や本来の形から離れて行くことになります。そのような時に期せずして起るのが礼拝の源流や原形に戻ろうという叫びです。宗教改革者のルターやカルヴァンもそうでした。これら源流に帰ろうとする人々、その原形に従って礼拝を整えようとする人々にとっても、最初の教会の礼拝をもう少し詳しく記して欲しかったという思いには否みがたいものがあります。どうしても物足りなさや短か過ぎると感じてしまいがちです。

 しかし、このような簡潔な表現の真意を尋ねてみることも大切ではないでしょうか。それを尋ねることは、また私たちのしている礼拝とは何かということの一面を明らかにすると思うからです。簡潔な表わし方に、次の二つの積極的な意味があるのではないでしょうか。

 ひとつは礼拝とは、文字以前、言葉になる以前の現実だということです。ですからむしろ、動作や身体を用いて表わすものだということです。礼拝は十字架に死なれ、復活したキリストご自身がそこに臨み、弟子たちをはじめ、信じる仲間を集めて共に食卓を囲み、ご自身の生きておられることを表現するものです。勿論そこに集まった人々が、「主よ」と呼びかけ、神を讃美します。しかしそこには言葉や文字に移される前の、復活の主がおられ、仰ぐべき神がそこにおられるという圧倒的な現実があります。そしてそこに集められた人々も、使徒パウロの言い方によれば、そのキリストと一つであり、その御体の肢体です。それは簡潔な言葉で記すしかないほど、厳そかな、また喜びに満ちたものです。

 もうひとつは、クルマンという人が言っていることですが、「使徒の教え、交わり〔元の語句には「相互の」はない〕、パン裂き、祈り」とはやがて将来に成長発展する礼拝や教会の、ちょうど植物の種子や種子の中にある胚に相当するということです。種子や胚は目立たず、小さいものですが、やがて成長する草木の成長の原点のようなものです。具体的に「使徒の教え」とはキリストの福音や戒め、あるいは説教、「交わり」とはキリストとの交わりや人と人との交わりと協力、「パン裂き」とは聖餐、そして「祈り」とは詩編の祈り、主の祈りを指しているようです。この四つの要素をよく吟味してみると、それはやがて成立する新約聖書の内容の四つの柱のように私には思えて来ます。新約聖書はこの四つをかなめとして、大きく成長した書物ではないでしょうか。そうすると聖書も礼拝から生み出され、それを表現するために発展したものだと言うことができます。そういう発展以前の教会の第一歩を素朴な表現にとどめるということは意味のあることです。

 

 この教会の最初の一歩を表わしている聖書箇所での中で、次の二つの言葉は特に注目しなければなりません。第一は「使徒の教え、相互の交わり、バン裂き、祈り」の次に出て来る「熱心であった」という言葉、また「ひたすら」(46節)という語は元は同じものです。この元の言葉は色々に訳せますが、専念するとか続行する、あるいは固着するという、あるものにかじり付くとまで言ってよいほど強い意味があります。つまり最初の教会は礼拝に固着し、それをただある時だけ熱心に守ったというのではなく、守り続けた、一層それに専念しだということです。礼拝にはそれに固着するとか、それにかじりつかせるものがあるはずです。何故ならこれをおいて他に、復活の主イエスとの本当の交わり、命の交流、そして本当に私たちの背きが赦され、新しく歩み出すというものがないからです。そこにまた、生ける主の、最も現実味を帯びた現臨があるからです。私たちも、この洗足教会もそれを怠るわけにはいきません。

 第二は「パン裂き」です。これは今日私たちが聖餐と呼ぶものです。しかし聖餐という言い方に比べるとこれは具体的で生々しい表わし方です。またこれに相当するのが旧約の過越の食事です。しかも過越の食事とは旧約の民が守った最大の宗教的行事であったことを思い出すと、敢えてそれを「パン裂き」と変えたのには相当の理由があるはずです。またそこに過越の食事のときのような具体的な神の救いのわざが込められているはずです。それはいったい何なのでしょうか。それには使徒言行録と同じ著者が書いたルカによる福音書24章13節以下の復活の主イエスが弟子たちに現われた物語を思い出さなければなりません。クレオパともう一人の弟子がエマオヘの道を歩んでいた。その二人の語らいに割込んだ不思議な道連れこそ主イエスでした。そして夕暮れ近づく頃、そのいまだどなたか判明しない方を、「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった(29〜31節)。この主イエスの決定的な御姿、またパンを裂いて渡される姿こそ、今も復活して生きておられる主イエスの御姿だからです。これを、これ以外でしか表わせないのが「パン裂き」という言葉です。これこそ忘れることのできない第一歩です。

橋爪忠夫牧師

(洗足教会月報「せんぞく」 2003年第6号 巻頭説教より)