礼拝に出席される方へ。  牧師メッセージ

「霊と真理を持って礼拝する」 橋爪牧師  (月報より)

聖書    イエスとサマリアの女(ヨハネによる福音書 第4章)

 (1)さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるとい うことが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、(2)――洗礼 を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――(3)ユダヤを去り、 再びガリラヤへ行かれた。(4)しかし、サマリアを通らねばならなかった。(5)それ で、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に 来られた。(6)そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸 のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
 (7)サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言わ れた。(8)弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。(9)すると、サマリアの女 は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと 頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。(10)イ エスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ま せてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人 に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(11)女は言った。「主 よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を 手にお入れになるのですか。(12)あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのです か。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸 から水を飲んだのです。」(13)イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれで もまた渇く。(14)しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与 える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(15)女は言った。 「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水 をください。」
 (16)イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 (17)女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫 はいません』とは、まさにそのとおりだ。(18)あなたには五人の夫がいたが、今連れ 添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」(19)女は言っ た。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。(20)わたしどもの先祖はこの山で 礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っていま す。」(21)イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この 山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(22)あなたがたは知らない ものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ 人から来るからだ。(23)しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父 を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求 めておられるからだ。(24)神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をも って礼拝しなければならない。」(25)女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれる メシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切の ことを知らせてくださいます。」(26)イエスは言われた。「それは、あなたと話をし ているこのわたしである。」
 (27)ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられ るのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるの ですか」と言う者はいなかった。(28)女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人 々に言った。(29)「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当 てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(30)人々は町を 出て、イエスのもとへやって来た。
 (31)その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、(32)イエスは、 「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。(33)弟子たちは、 「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。(34)イエスは言われ た。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成 し遂げることである。(35)あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っ ているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り 入れを待っている。既に、(36)刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集め ている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。(37)そこで、『一人 が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。(38)あなたがた が自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わし た。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
 (39)さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべ て言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。(40)そこで、こ のサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるように と頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。(41)そして、更に多くの人々が、イ エスの言葉を聞いて信じた。(42)彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、も うあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に 世の救い主であると分かったからです。」
日本聖書協会刊『聖書 新共同訳』(1987)による

説教
     「霊と真理をもって礼拝する」
                              ヨハネによる福音書四章7〜30節   牧師 橋爪忠夫
 日射しの強い昼日中に、シカル(今日のナブルス)の井戸辺に現れたサマリアの女 の様子には、その傍らで休んでいた主イエスの目を引くものがあった。そこで主の方 から「水を飲ませてください」(7節)と声を発した。そして一見チグハグとも思え るような対話が始まった。
 いったい主は彼女の様子のどこに目を留めたのであろうか。その外見は、きっと当 時のこの付近の婦人たちと同じように、頭の上に空の水がめを載せ、決まった日課を こなしているというありふれたのものであったろう。それは旧約の父祖ヤコブの時代 以来ここで繰り返されて来た風景である。しかし何かが違っていた。空の水がめは、 主の目を強く引く暗示があり、彼女自身を映し出す象徴のように見えた。水を求めて やって来たのに、水では満たせない、もっと奥深い渇きがあった。それを彼女自身が どれほど気づいていたであろうか。しかし主イエスはそれに気づき、敏感に反応され たのである。具体的に何が主の目を引きつけたのであろうか。それは彼女の井戸辺に 現れた時間である。真昼どきという、時の異状さである。普通パレスチナでは、水汲 みは夕方の女性たちの仕事であった。当然、時を合わせて集まる婦人たちは、にぎや かな井戸端のおしゃべりを楽しんだであろう。しかしこのサマリアの女は、その時間 を避けてたった一人であらわれた。人けのない昼時に、頭上の空のかめの影を色濃く 地に落して。
 ある注解書は主の目を引きつけた彼女の異状さを、timeless(タイムレス)と巧み に表わしている。タイムレスとは、無時間的な、永遠の、というのが第一義だが、こ の場合は、時ならぬ、時を得ないという意味であり、さらに深くは時間喪失を意味す るであろう。何よりも、「ご自分の時」を自覚し、また「時のしるし」を見抜くこと ができた主イエスにとって、この女の異状さは著しかった。さらにその注解書は、続 けてただこの女のみならず、人類全体に、また特に現代人にこの異状さがあると述べ ている。私は暗示深い指摘だと思う。
 このタイムレスな、しかも時間を失っている人間がいかにいやされるかが、主の深 い関心であった。チグハグと思える対話が進み、徐々に歯車がかみ合い、最終的には このようなメッセージが彼女に与えられる。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなた がたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。……まことの 礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。 なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だか ら、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(21〜24 節)。今こそ礼拝の時であることを知り、霊と真理をもって礼拝することが「決して 渇かない、永遠の命に至る水」(14節)に行きつくことであると。人は渇きを感 じ、水を求める。しかしこの渇きがさらに深い渇きを暗示し、さらにそれが一体 何によって潤されるかを知らない。そこで主に対するサマリアの女のように妙にズレ た、チグハグな返答を繰り返す。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いので すか」(12節)とか、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なく てもいいように、その水をください」(15節)という見当外れを犯す。あくまで物 事の皮相に終始する。主の語りかけが謎のように映る。しかし主はそのような彼女を 深所へ導いた。魂の渇きに気づかせ、それをいやすものを与えられた。それはまこと に時を得たものであり、また文字通り神秘なものである。
 彼女は魂の渇きを何によって気づかされたのか。それは端的に言えば、彼女自身の 時に気づかされることを通してである。彼女は主によって自らにそなわる時に呼び戻 された。この時というのは彼女が人目を避けながら忘れようとした彼女の過去であ り、また今である。それはかつて「五人の夫がいた」過去と「今連れ添っているのは 夫ではないしという今である。死別が、あるいは離婚であったのか、そして現在もな お道にかなわぬ情愛におぼれる生活である。これこそ渇いた魂の陥る常である。また 昔のサマリアであった北イスラエル王国の預言者ホセアの淫行の妻ゴメルを思わせる 姿であり、その淫行とは他の神々との私通であった。五人の夫とは五つのバール(主 人)、つまり当時のサマリアの多神教的礼拝を思わせる。魂の渇きはこのような醜い 過去を正直に記憶に呼び戻す以外には、それをいやす端緒に至らない。過去が記憶に 戻され、現在の自分の姿を注視しないように、人目を避けていては、その渇きはいつ までもいやされない。主はズバリと彼女にそれを指摘された。「あなたの夫をここに 呼んで来なさい」(16節)と。すると彼女は我に帰った。自分の過去とその今に、 そして魂の渇きに。それに対して主は「まさにそのとおりだ。……あなたは、ありの ままを言ったわけだ」(17〜18節)とうなずいた。これが彼女が自分の過去と現 在という時間喪失に気づかされた瞬間である。魂の渇きとは人それぞれの時間喪失に よる、内から起こる叫びである。アクグスティヌスの言うごとく、魂とは、過去の記 憶、現在の注視、未来への期待であるからだ。これらを無視するとき、魂は激しく渇 く。
 それならば、その渇きはいかにしていやされるのか。決して渇くことのない永遠の 命に至る水に出会えるのか。それこそが救い主イエスの本題である。主は言われる、 「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と。人のさらけ出さ れた醜い過去・現在未来は何によっておおわれ、甘美なものに変えられるのか。それ は神によってであり、キリストによってである。それは礼拝することを通してであ る。この礼拝において、人の過去を赦し、現在を愛し、未来を望ませる、神とキリス トが今という時に働かれる。永遠の命とは単なる、無時間的な、時とは異質のもので はない。それは神の天地創造の始めから、黙示録にある世界のテロス(終り、完成) まで働き続ける神の命、神による息吹きであり、それこそ人に命を吹き入れ、渇きを いやすものだ。礼拝はそのような安らぎと力を与えるために、神自らが私たちのため に備えて下さる魂のオアシスである。私たちの最も奥深い魂にかかわることを、神が なさるのである。そして私たちの過去に、神の過去が重なり、私たちの現在は、神の 現在に包まれ、閉ざされた未来に神の国への明りがともされる。この礼拝によって与 えられる神の時に魂は潤される。この神によって与えられる霊と真理(それは直接に はみ言葉であり、聖書と言えよう)をもって守られる礼拝はいかに美しきかなであ る。
 従って彼の女の犯した愚かさを私たちも犯してはならない。一つは、人目を避け、 自分で作意して魂を眠らせることである。それは人前ではなく、神の前を避けること だ。時を合わせて行われる礼拝から遠ざかり、自らに閉じこもるのはやめよう。二つ は、ここに出て来る「礼拝する者」とは終始複数である。決して単独者ではない。共 に礼拝する者を父なる神は求めておられる。他の人と共に守る礼拝を妨げるものを除 くためにも、主の霊と真理によらなければならない。
せんぞく(洗足教会月報)1999年1号掲載

(もっと知りたい方は、下記の9月の月報に掲載された説教をお読みください。1月から9月まで各会でこの聖書箇所につき学び、9月には修養会を行ないましたが、その修養会の日の聖日説教です。)

説教
  「霊と真理をもって礼拝する」
    ヨハネによる福音書四章16〜26節 牧師 橋爪忠夫
 今年1月から私達は教会として最も大切な礼拝を共に見直し、その大切さを自覚し て、必要があれば、より御心にふさわしいような礼拝へと形づくることを求め、歩ん できた。表題に掲げた聖旬は、礼拝を考える時、古くから必ずあげられる箇所であ り、そういう意味では私達の教会は常識的な聖句に基づいて、聖書的に礼拝を考えて きたといえる。この四章はなかなか豊かな、多くの示唆を含んだ物語であるが、特に 「霊と真理をもって礼拝する」ということについて共に示されたい。
 主イエスがユダヤを一時離れガリラヤヘ向かわれる旅の途中、シカルというサマリ ヤの町の井戸辺でこの物語が始まる。イエスがお一人で休んでおられる所に、一人の サマリヤの女が水をくみに現れる。主イエスはご自分の方から、その女に目をとめ、 「水を飲ませてください」と言われた。日差しの強い正午ごろ、人目を避けて水くみ に来る女は、ユダヤの男の人に語りかけられたことで驚くのである。ユダヤとサマリ ヤは隣り同志であり、旧約時代には十二部族の仲間であった。その後の歴史の変遷に より、北イスラエル王国は様々な国に征服され、純粋なイスラエルの民ではなくなっ てしまった。が、一方ではイスラエルであるという自負を持ち、ユダヤとは近親憎悪 ともいうべき隣国同志の大変醜い間柄になっていたのである。サマリアの女は、「ユ ダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むので すか」と言う。それに対して10節以下の対話は、普通の話のやりとりではなく、話 題に方向づけがなされた対話が進んでいるように思える。イエスの「もしあなたが、 神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか 知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与え たことであろう。」という答えは彼女に大きな戸惑いを覚えさせたにちがいない、何 故なら単に喉の渇きを潤す水の問題から、人の問題へと話題が移ろうとしているから である。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と、そこにおられ る主イエス・キリストが話題の中心に変わっていくのである。「この水を飲む者はだ れでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与 える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」いわば、渇くこと のない水がある。このわたしが与える水がそういう水であるとイエスは言われる。サ マリアの女は単純に水のこととして理解し「主よ、渇くことがないように、また、こ こにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と頼むのである。渇くこと のない水が与えられれば、自分の不足は満たされると考えたわけである。
 それに対し主イエスは突然「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言 われたのである。喉の渇き、体の渇きには水が必要である。しかしイエスのこの求め は単に水では満たされない、潤されない渇きとは何かを、この女に気付かせたのでは ないか。「夫」という言葉は、寄りそうべき人、仕えるべき人、古いイスラエルの伝 統からいうと、主人(バアル)、わが主の意味を持つ。サマリヤの女の渇きとは、エ デンの園でアダムの助け手としてエバが造られたように、自分にふさわしい、助け手 をもたなかった渇きであり、更に本当に仕えるべき主を持たないという深い渇きであ ろう。五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。という節操のない女の 話という印象を与えるこの箇所には、伝統的な理解として、一つの神に満足できず、 次々と自分が神と見えるものを変えていく、人間の持つ宗教的な渇きを意味するもの がある。実際旧約聖書におけるイスラエルの偶像礼拝は甚だしいものがある。あれほ ど神たるものが明確であり、あれほど預言者の鋭い警告を受けながら神々に媚を売 り、偶像礼拝に落ちていったという深い渇きである。自分の真の生ける命の主を求め ながら、それを見い出すことが出来ない。それはちょうど自分にふさわしい助け手を 見つけられず、安住する所を持たないこの女の姿であり、深い宗教的な渇きを持ちな がら、自分ではまことの仰ぐべきものを見い出せずさ迷う人間の姿である。「わたし には夫はいません」とありのままを述べた女を主イエスはほめ、礼拝へと話を向けら れる。
 サマリア人はモーセ五章だけを聖典として読んでおり、モーセのような預言者が立 てられるという、一種の救済者を待つ信仰を持っていた。女は「主よ、あなたは預言 者だとお見受けします。」と述べ、礼拝すべき場所へと話が進んでいく。サマリア人 はシカルの近くのゲリジウム山に聖所を持ち礼拝していた。しかし主イエスはどこで 礼拝するかということには余り重きをおいておられない。「…あなたがたが、この山 でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを 礼拝しているが、わたしは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来る からだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が 来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるか らだ。…」(21〜24節)
 人間には深い渇きがあった。しかし、そのような人間を父として愛そうと求めてお られるのが天の父なる神であると語られる。そしてその神を礼拝する者は霊と真理を もって礼拝しなければならない、と。「霊と真理をもって礼拝する」とはどういうこ とか、「神は霊である」と一体どうつながるのか。このことはこの聖書の最大の問題 ではないか、と思われる。霊と真理をもって礼拝する、という言葉は一見、大変抽象 的な言葉と感じられる。ヨハネ福音書に強調され用いられている霊(プニューマ)と いう言葉は、本来風や、人間の吐く息と共通する語である。ヨハネ福音書16章の主 イエスの訣別の説教には「…わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わし て、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊であ る。」と述べられている。主イエス・キリストにかわって、主イエス・キリストのこ とを示してくれるのが霊であるから、霊とは甦えられたキリストということであり、 真理とはキリスト以外の何ものでもない。主イエスは「その人」、「わたしが」とい う言葉によってサマリアの女にご自分を示され、メシアを待望しているという女の言 葉の後、「それは、あなたと話をしているわたしである。」と明言される。私達が持 つ大きな渇きは、まことにあがめられるべき天の父のもとで始めて潤される。そして 私達は自分ではそういう方を見い出すことが出来ないのである。ただ主イエス・キリ ストを通して、つまり霊と真理であるキリストを通してのみ、私達は永遠の渇きをい やされる方を仰ぐことが出来るのである。キリスト以外には私達を本当の礼拝に導く 方はおられないのである。従って私達の礼拝の大きな課題は、キリストがそこに本当 におられるような礼拝をすることである。キリストが語った言葉が新しくここで語ら れなければならない。そしてキリストはただ言葉を語りかけただけではない。言葉が 肉体となって、私達のもとに来られたのである。そのキリストが目に見える体になら れたその肉、その血である聖餐を通して礼拝は本当の礼拝になっていくそこにキリス トがおられる。そして私達を通して、またキリストが表される、そういう礼拝を共に 力強く守っていきたい。
せんぞく(洗足教会月報)1999年9号掲載